2017-09

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つきいちのべんえい

すこし忙しがっている間にスポンサーサイトのエントリが投入された。おや。もうこんな時間か。急がなくっちゃ。パーティーに間に合わないや…。

相変わらずこういう仕様にはいらっと来るが、最近少し慣れたみたいだ。思えばリアルで月1連載を続けていた頃は、月末になるとメールが来て「書いてくださいね。はあと」という文言を見る度に同様の感覚を覚えていたものだ。現在はそういう定期的な仕事(あくまでもサブですが)から手を引いたが、違う方面で締め切りのある仕事でいろいろと書かされている。

ああ、もう水曜日か。あれとこれと資料を取りそろえて、まとめなくっちゃ。お茶会に間に合わないや…。
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うちのトトロ

先日、うちの母が目を覚ますと、枕元にトチの実が「置いてあった」。
その少し前、やはり朝目を覚ますと、枕元に小さな石ころが置いてあった。
うちにいるネコのしわざだ。
母は「まぁ。まるでトトロね」と笑っていた。

実際のトトロ(というのも変だが)と違うのは、
うちのはスズメの雛とかモグラとかも土産に持ってくることだ。

朝まだくらいうちから、両耳をぴんと立て、忙しげに出て行くきなこ色の生き物。

裏の森でなにをし、なにを考えているのか。

夏が終わる。秋の気配が濃くなる。

始まりもせぬ旅

なんで父親殺しをしたんだと。で、どの面下げて故郷へ帰るんだと小一時間。(挨拶)

クモの最後は、やっつけられた上にさらに追い打ちをかけて徹底的に貶められ、そのうえスバらしい竜が出てきてとどめをさされた。ああそうですか。良かったですね。世界は救われるんですね。そんなにあいつは悪い奴だったんですね。

幸か不幸か時間があったので、世にも珍しい(あの原作者が乾いた口調で批判的感想を述べたんだからすごい)映画を見てしまった。時間の無駄だったと感じたが、いや、これはこれで意味があったのかも知れないと思い直す。「不味いものをさんざん食べないと、美味いものが分からないのだ」という言葉を知っていて良かったと思う。

ボーイ・ミーツ・ガール。呪宝の守護者。大賢人。正邪善悪の戦い。主人公に対する試練と成長、均衡の破壊と調和。この世の成り立ち。呪物。そして成就。少年は美しい女性を得て、帰還する。

まぁ、ディズニーの量産体制下積み原作脚本選考では必ず通るフィルタリングプロットのオンパレードであった。ネタ本は流通してるし、監督がこれらのノウハウを「知っててやった」のならどうしようもないし、知らないで組み立てたのなら、まぁ別々の原作と原案(それだけで何じゃそれという気がするが)をまぜて素人が思いつくプロットを周りが良く盛り立てましたねというところだろう。

原作者が避けたかったことの一つにして最大の問題は、原作を「ディズニー的」なものとして通り一遍のファンタジーとして貰いたくなかったということだろう。逆に言えば、それは宮崎駿のオファーを2度も蹴り、その後宮崎アニメを見直して、宮崎駿の作品として映画化するというときに、ル=グィンが最も期待したことだったのではないかと思う。

しかし、息子は(そして父も)見事にその期待を裏切った。それは、映画としての巧拙ではなく(例えば断片的な描写とか、必然性のない組み立てだとか、そういうこともあるとは思うが)、もっと原則的なこと、ゲド戦記において作者が込めたかったであろう世界観を、ものの見事に裏切り、「ディズニー的」な作品としてしまったことへの失望感だったのではないかと思う。

例えていうなら、「イシ」において影響された西洋文明の暴力と破壊的普遍性という状況への批判という意味で醸し出された作者の思想そのもの(これは「真の名」という概念に現れている)を咀嚼し理解することなく、表層的な道徳と善悪対立そして通俗的なロマンスに変えてしまった監督への失望感だろう。

だから、翻案や独自解釈として原作者の「意を汲み取らなかったから」残念である、というレベルではなく、その表現する世界観が全く相容れないのだ、という意味での、原作者の本作品への否定(「これは五郎吾朗の作品である」という、評価としての完全無視)に至ったのだろう。

参考:ゲド戦記(映画)

隼(はやぶさ)の尾根

再開したと言ってもなにから手を付けていいか分からなかったが、いろいろ考えることになりそう。ここでは厳密な議論とか(哲学的なこととかいろいろ小難しいなりね)はおいといて、まずは内なる問題を(ユルくなく)見渡すことにする。

テーマはそのつどの興味から考えるが、いままでこのブログで実践してきたスタイルを踏襲しよう。とりあえず。政治や経済の小難しいことはTWO CENTSに任せる。

ブログ更新終了。

このブログは更新を終了します。いままでコメントしていただいた方、トラックバックをしていただいた方、どうもありがとうございました。

記事を書いててつまらないと思うとき

 「女性は産む機械」という柳沢厚労相の発言をめぐる話題を取り上げていて、書きながら「つまらないなぁ」と思えていました。いや、もちろん、その発言自体がたいしたことじゃないとか言う意味じゃなくて。

 関連エントリ みんなのてき たんたんたぬ

 自分のなかで「しょうがないなぁ(にがわらい)」的な気持ちが出てくると、それから先、勢いがなくなってしまうんですね。いろんな人が良く(苦笑)と書きますが、これはどっちかというと認めつつも否定するようなニュアンスがあると思えます。しかし、試しに(にがわらい)とやってみると、否定的ニュアンスばかりではなく、対象を「どこかほかの世界の人」みたいに遠ざけてしまう感覚があります。

 そういう「対象」になってしまうとそれに対して何事かを書き立てる意欲というのは全く沸かなくなってしまうのでしょう。ただ、立場上(<自分が勝手に作り上げたものだってことは百も承知の)義務感みたいなもので型どおり批判したり茶化したりするだけ。

 以前エントリした 春を待つ手紙 でも書いた「距離感」を埋める気持ちがなくなってしまうのかも。

 これでは気合のこもったエントリなど書ける訳がない。しかしです。これで対象が自分にとって永遠に無関係なら、忘れてしまっていいのでしょうが、どこか引っかかるものがあって、気にはなると。いずれまた関わる予感は常にあると。こういうときはどうすればよいか?

 自分としては、当たり前ですが、とりあえずほうっておこうと思います。

 ただし。自分の間合いに入ってきたら遠慮なく切り返す用意はしておこう。準備は怠り無く、情報を集め勉強しておこうと。

 あんまりカッカとしているときはそういう時間さえなく突っ走ることになるから、あまり良い結果になるとは言えないですから。あとで「やっちまったなぁ」と嘆く結末になるかもしれないし。

 だから、今は来るべきそのときのための猶予を貰ったと思えば、返ってありがたい気さえわいてきます。

 気になるけど関わる気持ちもない対象ってのは視界の片隅に置いてとりあえず無視していたほうがいいのでしょう(変な日本語)。

 でもね。もしもそういう対象がどこかスピンアウトしてしまったら、それはそれで寂しいものです。複雑だなぁ。(苦笑)

たんたんたぬ

 知った当初は言うべき言葉を見つけられなかった。

与党からも「辞めて」…柳沢厚労相もう絶体絶命 スポーツ報知

 野党では更迭要求の動きが加速。各党はこの日の衆院予算委員会を欠席した。社民党の福島瑞穂党首ら女性議員は、女性団体のメンバーと緊急集会を開催。

 出席者らは「たんたんたぬき」のメロディーに乗せた替え歌などで、辞任要求の決意を確かめ合っていた。


 こういうお笑いを提供してくれるのが彼らの品質か。福島さんなんかは、まじめな顔をして腕振って明るく歌ってたのかなぁ。

 彼ら、反対の立場で与党議員が同じようなパフォーマンスをしたら「国会を何だと思ってる」とか「品性下劣だ」とか「常識をわきまえるべきだ」とか騒ぐくせに。

 少なくとも最低限の品性は保ってもらわないと。すでに批判の対象ですらなくなってる気がす

給食費未払いについて思う

 不覚にも泣けてしまったので、エントリ。

マツオカ先生とツトムの話 木走日記 

 もうね、ぐだぐだ言いたくない。払えるんなら払ってやれよ。給食費。なに怒られてごねてんだよ。

 そういう小さいところから誇りをなくすと、ほんとに何にも残らないぞ。見栄えは良くても使いものにならない粗大ゴミみたいな人生送るぞ。子供はそれを見てるんだぞ。きっと。

・・・いかん。熱くなってしまった。

 すこし頭を冷やしてから考え直そう。それまで↑は晒し者

・・・

 んーと、一晩時間をおいたが、気持ちは変わらなかった。

 払えるんだったら払え。以上。

春を待つ手紙

 何事かについて何かを言いたいのに、言葉が出ないときというのがあるみたいだ。判っているのに、言いたいことはあるのにも関わらず、何も言えない感じ。何でかと考えてみた。

 きっと、対象が余りに近かったり、逆に遠すぎたりするからだ。自分の思いが届くちょうどいい範囲でなければ語れないことというのが有るみたいだ。それがすべてじゃないけど。

 遠ければ、近づく努力をすればいいんじゃないかと思う。少しづつでも、近づく努力はできると思う。頭で考えてあれこれ試みていくうちに、不思議と、近づいているといる実感が湧く。そうすると、なんとなく、言葉が出てくる。その言葉がまた距離を近づけてくれる気がする。

 けれど、近すぎる場合は厄介だ。突き放すなり切り離すなりしてからじゃないと、語れない。

 自分を切りつけると同じような痛みだってあるかもしれない。

 ここでいつも思うのが、切り離すことが必要なのかってこと。

 できそうもないなぁと思えることもある。そういうときは黙るしかないのかも。

 もちろん、自分を遠ざけておくって手もある。

 さて、唐突に引用。

 拝啓
 フランスでの最近の事態について私の書簡を重ねてご熱心にお求め下さったこと、恐縮に存じます。私の所感など御懇請戴くほどの価値があるとは、私自身思ってもおりません。それはまったく取るに足らないものであり、お伝えするかしないかについてとやかく心を砕くほどの代物ではありません。最初にそれをお望み戴いたとき私が躊躇ったのは、貴方の――本当に貴方一人だけの――ためを考えてのことでした。貴方に宛てて認めさせて戴いて結局はお送りすることになった最初の御手紙の中でも、私は特定の人々の立場から書いたり、またその人々のために書いたのではありませんでした。以下でもそうする積もりはありません。私には誤謬もありましょうが、それは私自身のものであって、私に向けられる世評だけがそうした誤謬に対する回答となるのです。

フランス革命の省察 エドマンド・バーク 半澤考麿訳
みすず書房版 第一部 冒頭より


 これは保守主義の父と呼ばれるイギリスの文人エドマンド・バークが遺した言葉。フランス革命の騒乱を徹底的に批判し、穏やかかつ公正な言葉でイギリスの有るべき姿を示し続けた人物だった。

 現在のアメリカで保守主義といえばバーク主義であるとも言われ、バークのこの著書は当時から現在に至るまで保守思想の淵源ともいえる影響力を保ってる。

 そんな豆知識今はどうでも良くて、バークでさえ、自分を遠ざけて、自分の愛する国の人々を遠ざけて語ったのかもしれない。それが、あの熱い言葉になったんじゃないか。

 あの著書が誰かの立場を代弁して書かれたのなら、これほどの影響を後世まで与えはしなかっただろうな。

 ということで、引用は笑えるくらい大げさな話だが、ちっぽけなブログだって、何かを批判するスタンスならちょっとはそういう矜持を保ちたい。

 ただね、身を切るようなことって、辛いのですよ。

藤原正彦:美しい理想郷を夢想し回想する人

 美しい日本と国家の品格を足して二で割って振り返ったことにすれば、理想郷が出来上がるかもしれない。

【正論】藤原正彦 若い君への年賀状 (IZA)


 読んでて違和感があるのだが、特にここで引っかかった。

 法律とは網のようなもので、どんなに網目を細かくしても必ず隙間があります。だから道徳があるのです。六法全書が厚く弁護士の多い国は恥ずべき国家であり、法律は最小限で、人々が道徳や倫理により自らの行動を自己規制する国が高尚な国なのです。わが国はもともとそのような国だったのです。



 恥ずべきとか高尚とかって問題ではないと思うのだがなぁ。

 そういう基準を持ち出したら、道徳や倫理が法より上であり、法は「下品」で道徳や倫理は「高尚」ということに取れる気がするが、そうか?

 道徳や倫理を持っているから私は高尚だという人は高尚だとは思えないな。

 道徳や倫理を持っている人たちがたくさん住んでいる国があるとして、それを外から見てみたら「ああ、あの人たちは高尚だなぁ」という感慨は抱くかも知れんが、当の本人たちは「なに? あちきたちが高尚ですって? ご冗談でしょう」と笑うと思うぞ。

 ま、自称「高尚」で「倫理観が高く」て法律が少ない(一人の偉い人が勝手に決めまくる)という独裁国家は知ってるけど。

 ああそうか、藤原さんは[お前の国は高尚」で「お前の国は高尚じゃない」って決められるほど偉いんだ。法より偉いのかもね。



 というようなことを言いたくなるような記事でした。(^^) 落ち着いたらも一回考えてみよう。

 あ、そうだ、青龍さま。近いうちに復帰します。遅れててすみません。(^^)

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