2017-09

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敵味方というのもまたあぶないものであり。

あったくもう。スポンサー記事がうざい。(挨拶)

鍵コメというのは要するに使いようなのだが、私としてはそれを用いる基準を二つ用意している。一つは、相手が信用できること。もう一つは公開されてもかまわない情報であること。安全管理の面から言えば、公開されて困るような情報を信用ならない相手に対して送るのはいただけない。しかし、公開してかまわない情報なら、何も鍵をする必要なはい。なので、鍵コメをつける第一の基準すなわち相手が信用できるかどうかに、殆ど全てを託すしかないわけだ。

だから私は原則として鍵コメ機能を利用しない。WEB上で「信用できる相手」など、そういるものではないからだ。こちらが勝手に「信用してたのに(泣)」というのは、はっきり言って自分が甘すぎたか、お花畑に住んでいるのだから、泣いたところでどうしようもないだろう。そういう人はWEBから立ち去るか、何度も痛い目にあって、自分が荒涼とした場所に居るのだと気づいていただくしかないだろう。

そのなかで、それでも信用できる相手というのを見つけることができたら、それは幸せなことだ。信用できると言うところまでがんばったわけだから。喜ばしい。

それで裏切られたらどうするのかって? まぁ、そこいらへんも乗り越えての「信用」なんだから。がんばりましょう。

ところで、WEBでの敵味方というくくり。これはどうなんだろうねぇ。少なくとも私は、そういうくくりはしない。というか、怖くて出来ない。敵は簡単に想定できるが、味方は難しいからだ。前述の信用問題としてみれば、「敵」にはその担保は必要ないが、「味方」というくくりをしたその時から、その味方を味方として信用せざるを得ない状況が生まれてくる。これはアブナイですよ。

もっとも、打算としての敵味方区分なら、巧妙に立ち回れば得るものも大きいのだから、それで良いというドライな人は大いにそうしていただくとして。

要するに、敵味方という区分は、気をつけないと痛い目を見る。しかし、それでも二項対立で色分けすると楽だから、そういう区分でグループ分けしたがる気持ちも分からないでもない。

無用な痛い目を見たくないのなら、味方は自分一人、と思って行動したほうがいいかもしれない。WEBにおいては、傍観者も対話者も、その個々のミクロな存在としては、本質的に信用ならない存在だと考えた方がいいだろう。

ただし、そのミクロな存在が集合して「WEB世間」となった場合は、その世間は案外正しかったりするから、自暴自棄にはならないようにしたいものだ。世間は案外正しい、と、かの松下幸之助翁もしみじみ語っていたというし。そんな爺くさい話をしなくても、経験的には、まぁそうかなと納得できるところもある。

もうひとつ、大切な私の行動規範としては、過去にもどこかに書いたが、WEBでの言説は基本的にその場に書かれたことのみを基準に考える、というのがある。これはその書き手に対する手持ちの背景知識を動員せずに、書かれたテキストからある意味朴訥とも言えるほど単純に意味を見いだす、ということだ。

この基準の良いところは、書き手に対しての要らぬ文脈や立場などを一旦切り捨てて見ることで、不要な価値判断に引きずられることがない、と言うことだ。

しかし、この手法は相手に対する情報が増えれば増えるほど、難しくなってくる。逆に言えば、テキストとして一期一会に近い関係である限りに置いて、有効なのかも知れないとは思う。

文脈に引きずられること、これとテキスト内容に対するシンパシーが重なると、疑似信用状態が起こるから、好ましくない。いわば、勝手に想い入れて信用してしまう可能性がある。これを回避するためには、幾つかの工夫が要るのだが、基本は、やはり敵味方というくくりに持っていかないことだろう。または、味方を増やすという気持ちを抑えることだろう。

味方は自分一人なのだ。信用できるのは自分だけ。そう腹をくくると、WEBが、湿っぽい場じゃなくなる。湿度が下がり、からっとする。そうじゃないかな。

でもまぁ。そういう態度を取ったって、いろいろなトラブルに見舞われることはある。しかし、それと同じだけ、本当に信用できる相手を見つけるチャンスも増えるってものだ。
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骸の旗印

事前に周知されていながら、犯罪は無くならない。過去も、これからもそうだろう。その理由を「なぜ?」と問うてみても、それは「人間だから」としか言いようがない。このことの考察は機会を別に譲る。

犯罪を犯すのも人間ならば、その犯罪を「罪」と決めるのも人間である。その犯罪がヒトの生死や肉体に関わるものならば、それは、ある個体が対象となる個体に何らかの「働きかけ」をし、その結果として肉体が損傷される。

その犯罪がヒトの心に関わるものならば、同様にして、働きかけられた個体の心を傷つける。

心を傷つけられ、なお、肉体を傷つけられ、死に至ったとしよう。それは、その個体への「永久的な」心理状態の変化としての「死」であり、死に至らなかった個体の心理変化の、究極的な形である。

このような事態に対して、私たちは「それは犯罪である」とする。なぜか。それが仮に対象への快楽を与えるものであるなら、犯罪ではないか。例えばある種の薬は快楽を与える。これは犯罪ではないか。いや、短期的に見て快楽であっても、それがその個体を薬物依存という形でその心身ともに蝕むなら、そのような薬物を使用させる行為は犯罪であると私たちは言い切れるだろう。

ならば、単純に酩酊を引き起こすだけであるアルコール摂取はどうか。地域により、宗教的な禁忌としてそれを禁止していることを私たちは知っている。しかし、多くの地域での日常的なアルコール摂取は、それのみでは犯罪と取られないこともまた、私たちは知っている。

自殺はどうであるか。自殺は犯罪であるか。他の個体により自死を選択せざるを得ない状況でなかったのなら、そして、罪を問うべき当人が消え去るとするなら、与えるべき罰もまた無いことになり、一般的な意味では犯罪になり得ないかもしれない。そのような状況がどれだけ有り得るかは別として。とまれ、多くの社会が、自殺もまた「おこなってはいけないこと」としている。輪廻転生を信じる地域に於いては、生まれ変わり思想が自殺の規制を緩める場合も、あるのであるが。

話を戻す。「罪」があり、それを「罰する」とは、被害を受けた者の権利回復を期すると言うより、刑罰を科すことにより「罪」を先んじて止める、つまり「犯罪の抑止」であるとする考えがある。また、近代では、特殊な場合を除いて、刑罰により犯罪者の更生を期することも目的になる。これは後に記す。

具体的には、刑罰とは、罰せられること即ち罪を犯したと認定されるものに対して肉体的労役もしくは精神的労役あるいはその両方を「与える」ことであると言える。これにより、割に合わない行為としての「罪」を起こさせないよう期待する。では、「罰」を与えるのは誰か。時の権力である場合が多い。個人による報復つまり私刑は禁じられている。少なくとも現在の社会に措いては。

過去には、刑罰は時の権力者がその権力誇示のために与えたものでもあった。それ故、その時代に於いて、その権力により重大と見なされる犯罪に対しては、八つ裂き、磔、火刑などの極端な肉体の苦痛を与えた上で死に至らしめる罰があった。しかしそこから時代が下ると、刑罰は、目には目を的な刑、見せしめ的極刑などを廃止し、より「人道的」な刑罰を科するようになった。換言すれば、犯罪を犯した者に精神的影響を与えるものに変化してきた。いわゆる収監である。そこで犯罪者は矯正され、更生され、社会に出てくることが可能となった。しかし、犯した罪があまりに大きい場合は、社会に戻ることを許されず、死をもって罰せられることもある。いずれにせよ、それはその時代の集団から発生する権力が規定し実行する刑罰である。

これらの刑罰により、犯罪を「被った」者、即ち被害者はどうなるか。財産権のような計量可能なものは、同様の権力に規定された何らかの補償によりその回復が図られる可能性がある。しかし、ヒトが持って生まれた肉体、およびそこに存在する精神は、一旦障害を受けたなら、容易に回復し得ない可能性がある。その障害を金銭などの計量可能なものに置き換えて補償したにしても。

ここに、罪を与えたもの即ち加害者と、罪を受けた者即ち被害者の非対称性がある。その非対称性を埋めるものは何か。もし、加害者が心から自らの行為を悔い、被害者が(生存しているとして)それをはっきりと認識し受け入れるなら、その非対称性も多少は少なくなるだろう。事実は消せないとしても。しかし、加害者が決められた刑罰を受け、(刑罰の手続き上)社会的に甦生できたとしても、悔いや反省という心理状況が無く、被害者の感情を一顧だにしない者であれば、社会的な手続きを経た刑罰が被害者にとっては意味がない可能性がある。もちろん、社会が規定した相応の刑罰を受けた事実を以てその非対称を埋めたと被害者自身が納得すれば別であるが。

このように、加害者と被害者の非対称性は、少なからず存在するし、それを埋めるのは難しい。

さて、このような状況で、周囲の者が、その結果は自業自得であると言うことは、どういうことか。

結論から言うと、それは、計量可能な被害としてではない肉体もしくは精神に対して他者から被害を被ったことの回復には繋がり得ない。むしろ、加害者と被害者の非対称性を拡大する行為である。なぜなら、その犯罪に対し、主観的に、つまり根拠のない感情もしくは漠然とした社会規範により、被害者にも罪の何割かを負担させるという発想もしくは指摘が、自業自得と言うことだからである。

付け加えるなら、ある程度のリスクを想定して利益を得ようとする行為、もしくは、個人の考えにより個人が自身の行動を決定し続けるという個人主義的行動(この背景にはそのように行動することが可能となる様に導く教育や社会の合意が必要であるのだがそれはさておき)の、結果に於いて被った不利益は自身の責任に帰するという、自己責任概念があるのだが、犯罪という、加害者と被害者の因果関係の希薄さ、行為の非対称性さは、それと重なる部分は少ない。

つまり、犯罪という状況においては、第三者が、適正な手続きに依らず、犯罪による被害の非対称性を、わざわざ広げる行為が、自業自得という発想もしくは指摘であるのだ。

ことに、性犯罪というカテゴリに於いて、自業自得という指摘は、その非対称性を極めて増幅させる効果となる。

例えば、性的に非常に惹かれる容姿相貌を持つ女性が、性被害にあったとして、それは自業自得であるかどうかという議論をすればすぐに分かる。容姿相貌を美しく保つことは、それが性被害の引き金となる意味での「責任」となりうるかどうか。日常生活の中で、どの人間と出会うかを全てを選べるという選択可能性とそれに基づく結果責任が生じるかどうか。生じようもない。

さらに、そのようなことをすれば結果として起こることは自業自得である、という論理で事前に被害者の行動を抑止・矯正せしめるとはどういうことか。

先に例に挙げた魅力ある女性でいえば、もし事件が起これば、その被害者の存在および行為は「起こるべくして起こった事件の原因」である、とされる。起こらなくとも、自身の行動がそういう事件を引き起こしうるという、自縛の意識から行動の自由が束縛されうる。つまり、行動はあらかじめ罪を前提として変化させられ得ると言うことである。

いずれにせよ、自業自得論は、未来の被害者という存在として相手を規定する。

冒頭に戻って、「事前に周知されていながらも犯罪は起こる」。性犯罪もそうである。であるから、「犯罪が起こらないように事前に周知する」ことのために取り得る行動は、限定された効果しかない。その認識は正しく、そしてまた、そうであっても周知は必要である、という指摘も正しい。しかし、考えなければならないことはある。周知とはなにかという、そのこと自体の根本である。

周知とはなにか。何を以て周知というのか。自己が常に被害者となりうる存在である、と自己規定しつつ生きていくことを知らしめるのが周知であるのか。異性、この場合は男性が加害者になることが殆どであるのだが、その異性がことごとく潜在的加害者であると知らしめることが、周知であるのか。

少なくとも、性犯罪に於いて自業自得を指摘する者にとって、周知とは性に対する二項対立的な性悪説を基本とする犠牲者の一般化と名指しが論拠にならざるを得ない。それはいわば、性犯罪の犠牲者もしくは犠牲者となるであろう者の「骸(むくろ)」を旗印として、周囲にその犠牲を知らしめる行為であろう。そして、被害者はその骸の烙印を押される。押す者は誰か。自業自得論者である。


ここに、性犯罪の危険を周知せしめるという行為そのものの難しさがある。この困難さを意識せずに危険回避を説く者は、容易に「自業自得」の指摘に陥る。そして、骸の旗が振られる。骸の烙印を押された者には、あなたは骸の烙印を押された者であるのだと、指摘をする。

それはお前の所為である、という烙印。

骸の烙印を押された者は、その事実を以て、生きていくしかないか。新たなる骸の旗印に書き加えられるだけの存在であるか。少なくとも、自業自得論者にとってはそうである。

被害から回復し、元々の自己を取り戻すための行為は、骸の烙印によって永遠に封じ込められる。骸の旗印に加えられた者は常に旗印のなかにある。

骸の烙印は、骸の旗印は、その者をその骸のイメージの中に引き込む。であるなら、事実を否定することではなく、烙印を否定し、そのイメージを否定すればよい。ヒトはそのような烙印を消し去る、心の領域を持っている。自己が自己であることを、自由にイメージする権利を持っている。そして、常に変化する可能性を秘めている。

陰気くさく、物陰から自業自得であると指さす者の存在など、取るに足らない。
あなたは過去の、現在の、未来の、永遠に消え去らない烙印を押された犠牲者なのだと、声高に指摘して回る者の声など、必要ない。

骸の旗印に、大きく、否定の意味を込めてバツを墨書すればよい。そのような旗など必要ないのだ。
「事実」は傷として残るだろう。しかし、癒える可能性は常にある。そして。その癒しを遅らせ、傷を悪化させる「烙印」は、もともと不要なのだ。

性暴力の「事実」を語るイラクサの言葉に対し、「事実」と「骸の烙印」の存在をこのように叫ぶこともまた無駄ではないと愚考する。

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