2017-11

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冷血もしくは冷徹

Dr. HOUSE/ドクター・ハウス シーズン1 DVD-BOX1Dr. HOUSE/ドクター・ハウス シーズン1 DVD-BOX1
(2009/05/09)
ヒュー・ローリーリサ・エデルシュタイン

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ずいぶん前に医師の人がアメリカでこれを観て面白かったといってた。そこでネットを探してみたらあったので、入手したら米国視聴仕様とかいうやつで、リージョンを変えて観てみたが、当然英語で、悔しくて泣いた。

先日、民放テレビの深夜枠で、偶然シーズン1の第一話が放映されているのを目にして、しかも偶然オープニングからだったので、食い入るように観た。神の計らいというのはあるものだ。

主人公は冷血である。少なくとも言動からはそう取れる。本筋に関わる厄介な感染症の女性という症例の診断に苦慮する医師団を冷ややかに見つめ、患者も冷ややかに見つめる。暫定診断を下し、その推測に基づいて治療をするが、それはジェットコースターのように患者の状態を揺さぶる。絶望する患者は治療を拒み、尊厳を維持するための死を希望する。それをハウスは否定する。吐き捨てるように。

ハウスの医療チームに配属された若い男性医師は、自分の実力を買われたのではなく、若い頃の過ち、即ち犯罪歴を買われたのだとハウスから告げられ、自尊心を潰される。

もう1人の女性医師は、能力を買われたのではなく、美人であったから採用されたと告げられ、やはり自尊心を傷つけられる。

終盤、病状が回復した女性患者は、ドクター・ハウスに会いたいという。お礼がしたいと。しかし、ハウスはその場には居ない。周りの医師が、かれは仕事が終わるとどこかに行ってしまうんだと、肩をすくめながら答える。寂しげな表情を浮かべる女性。

彼女には、ドクター・ハウスが、冷血ではないと思えたのだ。冷徹だが、暖かい血が通っているという事実を悟ったのだろう。

ハウスは、人を、言葉を、信じない。

では、かれはなにをしんじるのか。
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敵役がいるという幸せ

フロスト気質 上 (創元推理文庫 M ウ)フロスト気質 上 (創元推理文庫 M ウ)
(2008/07)
R.D. ウィングフィールド

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東京創元社 フロスト気質(かたぎ) R・D・ウィングフィールド/芹澤恵訳 書籍解説

警察小説として絶大な人気を誇るシリーズ最新刊です。詳しい解説は上記リンクで言い尽くされているので、まずはそちらを読んでください。

さてそのうえで。

自己責任という言葉がありますが、警察機構において捜査指揮権を有するフロスト警部は、その責任において、次々と発生する事件を解決して行かなくてはなりません。人質となった子供の命の確保、変死体発見後の捜査、狂言じみた誘拐の真相解明、子供を狙う変質者の取り調べなど。それらすべてが、小説冒頭で、休暇中の身でありながら、マレット署長の上等なタバコをくすねるために立ち寄った夜のデントン警察署という地点から、パンドラの箱を開けはなったかのように、フロスト警部に襲いかかります。

フロスト警部の上司であるマレット署長以下、捜査指揮件を有する幹部クラスは、悉く、出世欲と見栄に支配された俗物として描かれます。厄介な局面をかぎつけるとフロストに押しつけ、利益と見ると手柄を我がものにし、失点はすべてフロスト警部に押しつけるのです。つまり、フロストは警察組織の中で、上層部から孤立し、一人の責任で事件を解決していかなければならない立場にあります。

人員不足のなか、次々と降りかかるトラブルに対して、フロスト警部は猛烈に立ち向かいます。しかしそれは、冷静なヒーローの体力と知力に恵まれていない、ある意味これもまた俗物なフロスト警部にとっては、傍目にも、荷が重すぎる出来事の連続です。

ほとんど不眠不休で捜査を進めるフロスト警部は、上司たちの保身と出世欲を一身に背負いつつ、愚痴をこぼし、思いつきで捜索隊を立ち上げ、その捜査の当てが外れてしょげまくり、また奮起して次の手を打っていきます。そしてうまく行きそうになると、鳶にあぶらげをさらわれる形で、手柄は他人に持って行かれます。

彼の支えは、デントン警察署の刑事クラスや巡査クラスの人たちです。手当たり次第に捜査をかけまくるフロスト警部に、ほとんど愚痴をこぼさず付いていきます。彼らはフロスト警部が好きなのです。それ以上にマレット署長をバカにして煙たがってはいますが。

今回の紅一点、魅力的な素質を持ちつつ仕事の意欲と出世願望がそれを隠してしまっている「ワンダーウーマン」リズ・モードは、当初フロストを毛嫌いします。それはマレット警視がもつ欲望と同一線上にあるのですが、下品な性的ジョークを発し続けるフロストへの嫌悪、あまりにも適当に事務処理を片付けるフロストへの軽蔑、その薄汚いとも思える風体への反発にも根ざしています。しかし、事件が進んで行くにつれ、フロストとリズの距離は心なしか縮まっていきます。フロストの指揮下で、率直に、事件を解決していこうという方向に、彼女の内面は変わっていくのです。

デントン警察署の刑事たちとリズは、フロストの熱意と魅力に、少しずつ好意を寄せていきます。フロスト警部とほかの上級職員やマレット署長の対比と重なりつつ、読む者も彼らやリズのように、フロスト警部に惹かれていくのです。

なぜ惹かれるのか、それは敢えて伏せておきます。上下2巻の長い長い小説です。そのほとんどが、ろくにベッドにも入れず駆け回る羽目になる事件展開、フロストと上司の対決、行き詰まる捜査とその挫折、フロストと確執のある警部代理との諍いとで費やされますから、読むほうも不眠不休の気分を味わいます。

そして。終盤に向けて事態は一気に動きます。フロストは、最後の最後まで、自分の主義を貫きます。そして、「クソが付くほど厄介でいまいましい事件」の数々に、フロストは一気にケリをつけます。

あと2作。作者は亡くなり、フロストの活躍は2作が未訳で残っています。今度はどんなやりかたで、さまざまな「クソ」にケリを付けてくれるのか。待ち遠しい限りです。

にんげん Ver.1.04

人に向かわず天に向かえ (小学館101新書 18) (小学館101新書)人に向かわず天に向かえ (小学館101新書 18) (小学館101新書)
(2009/02/03)
篠浦 伸禎

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不思議だと思うのは、今の世の中と、例えば戦中戦後の貧困な時代(私は生まれてもいないけど)を比べてみて、もしくは戦国時代のそれと比して。生きることに難しく死ぬことに容易いという点でかの時代には命の軽さと死の身近さは格段とあったろうということ。

なのに今、私たちはおそらくいつの時代にも劣らず、生きることを容易いことだとは思っていないし、死は身近なものだと思っている。

キレる人、鬱の激増、衝動的な殺人、自殺。人間が持つストレス耐性や自制心や良識と言った、私たちが社会生活を営む上で求められる心のバランス、その心の死とも言える状態は、私たちの周りに立ちこめている。それは、心の死であると同時に、動物的な生存本能がむき出しになった状態でもある。己の身を守るため、状況により、心を閉ざし、状況によっては、発作的に牙をむく。目の前の快楽にとびつき、自己保身のための嘘をつく。

それが何故なのか。この本では、それは人間を人間たらしめる大脳の機能的問題であるとする。なんらかの環境要因により、進化に伴う構造背景にある脳における機能分担のバランス不全が、動物的な反応を引き起こしているというのだ。

簡単に言えば、情動を司り多義的価値観を許容する「右脳」と、論理を司り一義的価値観を許容する「左脳」、そして本能的な生存欲を駆り立てる「動物脳」という地層的かつ進化論的構成の、何らかの原因によるバランス崩壊が、個人としての不安を招き、ひいてはそれが鬱や自殺、統合失調と結びつくのだと言うことらしい(あ、簡単に言ってないですね)。

ここまでは大脳の科学的な解説であるが、本書のメインテーマは、この先にある。

本書には「人間学」という言葉が出てくる。人間学とは、人間とは何であり人間はいかに生きていくのかという哲学的な考察を通しての人間理解への試みである。古来から、論語に代表される中国古典があったが、それをその時代に置き換えて読み、その精神を実践して行こうとする思想である。

人間学は中国だけのものではない。ギリシャ・ローマ時代の箴言もそうだし、スマイルズ、カーネギー、バーク、トクヴィルなどの啓蒙家、思想家もいる。経営の神様と呼ばれた松下幸之助も人間学を説いた。本書では神渡良平氏の著書「安岡正篤 人間学」を例に取っている。

心を病む患者、例えば鬱の人に、「人間学」の本を渡すと、それを読み、それにより鬱症状が改善されるという傾向に、著者は気づいた。それが何故なのか。その理由を大脳の機能に依拠して解明しようとしたのが、本書である。

その理由の真相は「人間学」の背景にある古典の知恵の効能に繋がる。苦しい時代を、極度のストレスを抱えながら生き抜いてきた先達の、苦渋から絞り出されたような人間理解と、その苦しい中にありいかに人間として生きていくのかという思想。思想という言葉が重ければ、生きていく知恵。これらを見いだしたとき、鬱の人の心がほどけてゆく。それは大脳の機能にも反映されてゆく。右脳と左脳の血流量、酸素飽和濃度にその変化がデータとして表れる。

本書では、その変化のキーワードを「公(おおやけ)」と「志(こころざし)」として提示する。



私たちの個人生活ではぴんと来ないかも知れない。公と志の具体例を挙げてみよう。

世に、経営者ほどストレスのかかる仕事はないとも言われる。「羽振りの良い社長さん」のイメージとは裏腹に、借金返済に悩み、売上に悩み、銀行からの融資条件に悩み、社員に悩み、取引先に悩み、景気に悩み、ライバルに悩み、ああ、もうどれだけ悩んで良いのやら、というほど悩みは多い。

社長業は、失敗すれば無一文である。事業の借金に個人資産を担保に入れるから、借金が返せなくなれば悲惨だ。債権者の取り立て、従業員の給与保証協議など胃に穴が開くような辛酸が待っている。

そのような、板子一枚下は地獄かも知れない企業において、社長の生存意欲を支えるのは何であろうか。私利私欲という欲もあるかも知れないが、多くの場合、経営理念に「公(おおやけ)」を強く意識して行くことである。それを具現化させる「志(こころざし)」を立てる事である。

順調なときは黙っていても儲かるのだから関係ないかも知れない。しかし、いざ不況・減収減益となったとき、つまり、会社として極度のストレスを被る状態が続いたときにどうなるだろうか。

人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、社長業は「公のために人事を尽くして天に向かう」という姿勢が求められる。そして事実、厳しい時代において、そういう経営理念を打ち立てて業績回復、業績維持を図っている会社は多い。

逆に、そういう理念を持てなかったらどうなるか。結果として、偽装表示や手抜きや場当たり的な値引きなど、「動物的」反応で身を守ろうとする。

そうならないために、志を求めて経営する人間は、知識体系の経済学を知ることと同時に、人間学であるところの経営の知恵を求めて、人間学と称される古典の森に踏み込む時間を割いている。

「私企業」と「個人」も、「私(わたくし)」という点では同じである。そして、「公」と「志」という点も非常に類似している。

夜も眠れないほどの悩み・苦しみを抱え、その辛苦が脳の活動を低下させ、人間の、人間として生きていく上での必須機能である大脳新皮質つまり「右脳」と「左脳」のバランスを狂わせ、大脳辺縁系つまり「動物脳」としての本能のみに突き動かされたとき、人は人であることを止めるのかも知れない。

人が人であるために、何をなせばよいのか。

「公」に目を向けることである。そして「志」をもつことである。

そのための指針が、本書にはあると思う。



論語に始まり、松下幸之助まで。優れた先達は人に向かわず、天に向かって行動した。本書に言及されている安岡正篤(やすおかまさひろ)の言葉に、こうある。

「われわれの命をよく運命たらしめるか、宿命に堕させしむるかということは、その人の学問修養次第である。これが命を知る<知命>、命を立てる<立命>のゆえんである。人間は学問修養しないと、宿命論的存在、つまり動物的、機械的存在になってしまう。よく学問を修養すると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる」(安岡正篤 人間学)

ここでの学問は西洋の学問(知識)のみならず東洋の学問(知恵)としている。それは、左脳(論理と一神教)と対置される右脳(情緒と多神教)の対比とも通底する。



「人の心はその人を作りもし、また、壊しもする。」

カタナとガイジンとトシロー・ミフネ

四十七人目の男[上] (扶桑社ミステリー ハ 19-14) (扶桑社ミステリー)四十七人目の男[上] (扶桑社ミステリー ハ 19-14) (扶桑社ミステリー)
(2008/06/28)
スティーヴン・ハンター

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 新宿駅西口を出て右に折れると、思い出横町がある。出張の折、ヤキトリの煙と多国籍の喧噪に浸りながら、鰻の寝床のようなカウンターに割り込み、ビールとヤキトリの盛り合わせを楽しむのが習慣化している。もしそこに、齢60、眼光鋭い痩身のガイジンが居たら。もしそのガイジンが、タイトすぎるブルージーンズを履いて、夏物のジャケットを羽織っていたら。決してボブ・リー・スワガー、あの狙撃の名手にしてタフな元海兵隊員ではないと判っていても、気になって仕方がないだろう。



 舞台を日本に設定し、カブキチョー、シンジュクニチョウメ、ハナゾノジンジャといったなじみ深い日本の地に単身乗り込む主人公、スワガー。ショーグンと呼ばれる男、ショーグンに協力する近藤勇と名乗る殺し屋とその集団、巨大なヤクザの組織を向こうに回してカタナで勝負を挑む屈強な男。

 彼は父であるアール・スワガーが体験した太平洋戦争末期のイオージマ上陸作戦という悲惨な戦闘に端を発した、一本の「軍刀」の因縁を解決するそのためだけに、日本のことなど何も判らないレッドネック(アメリカ南部の農民を指す言葉)として、異国の地に乗り込んでゆく。

 主人公スワガーは、戦いに関しては徹底して現実的な男である。物事を熟慮し、注意深く観察し、静かに闘志を燃やし、立ちはだかる敵を倒してゆく。優秀な狙撃手で、屈折した過去を持つ。戦闘は得意だったが、女性に対しては相当年を食うまで性的不能者だった(あることを境にそうではなくなるが)。無口で、現在の妻と娘を愛しているが、戦いの必要に迫られたらなにも言わずに黙々と準備を始め、家を出て行き、やがて傷だらけになって帰ってくる。

 前半のスワガーは無様である。日本という国を全く知らず、日本語など片言も話せない。ブシドーやサムライやニホントウのことは知っているが、それは彼の地の人たちが通り一遍に得ている知識の域を出ない。ゲイシャ、ハラキリ、フジヤマ。

 カタナとサムライを知るために彼が取った行動、それは、怪しげな英語のブシドー解説書やケンドーの本。そして何ダースもの「サムライ」もののDVDを見続けることだった。トシロー・ミフネを偉大だと思い、宮本武蔵を知る。近藤勇もそこで知る。

 もちろん、そんな男一人で日本に乗り込んでも何もできはしない。優秀なアメリカ合衆国の「組織」がサポートにつくが、それもため息をつきながら、早くスワガーを本国に送還したくてたまらない美人役人とその部下たちというメンツだった。

 スワガーは日本でカタナの研究家、アメリカ国籍で日本の裏社会をネタにミニコミ誌を作る男、陸上自衛隊の志ある若者たちなどの助けを得ながら、あの軍刀にまつわる秘密を解き明かしていく。そこに浮かんできたのが、残忍きわまる惨殺と欲望のからくりだった。

 スワガーは無知なガイジンなりに、日本を理解してゆく。そして、剣術指南を受ける。ガイジンから見れば狂っているとしか思えないような教え方でスワガーを鍛える道場主、彼の「試験」をする剣士。ボロボロになりながら、スワガーは「剣」のなんたるかを学んでゆく。

 無様なスワガーが無様であるのは、それはかれがガイジンであり、日本の様式、思考、慣習を全く理解していないからだ。だから、変なガイジンが日本にかぶれて中途半端にカタナを振り回したがっているように見える。

 後半、事態は一気に展開する。腐れ外道を絵に描いたような893(本書ではそう表記されている)の近藤勇、その手下の若者、ショーグンと呼ばれる男たちの腐れ具合がさらに際だち、スワガーの冷静で思慮深い真実の姿が立ち現れてくる。時代と国を超えて結びつく友情、愛、信頼。もちろん、スワガーは勝利を手にしなければならない。妖刀村正を手に、正義をなすために、スワガーは前に進む。



 今回もやってくれました。スティーヴン・ハンターの面目躍如といったところ。映画評論家の彼が、ハリウッド映画に幻滅して、主人公ばりに膨大な「サムライ」もののDVDを見つつ築き上げた、ジャパニーズ・ソード・アクション。なかなかの面白さです。

四十七人目の男[下] (扶桑社ミステリー ハ 19-15) (扶桑社ミステリー)四十七人目の男[下] (扶桑社ミステリー ハ 19-15) (扶桑社ミステリー)
(2008/06/28)
スティーヴン・ハンター

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ホムンクルスと石ころ

できそこないの男たち (光文社新書 371)できそこないの男たち (光文社新書 371)
(2008/10/17)
福岡伸一

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科学者が書く不思議な物語である。手作りの顕微鏡を覗く好事家は、その目に映る精子のなかに小人を見た。ホムンクルスだ。神の視点で見れば、その小人たちは色分けされている。赤と青に分かれた精子は雄と雌を決定すべく必死に、卵子に向かい泳ぐ。

小さな昆虫を解剖し続ける女性科学者が見たものは、分裂しコピーされる、赤く染まった小さな物体だった。染色体と名付けられたそれらのなかにある、一つの「小さく半端な」ものが、生物の将来を決定する。性染色体である。

30億のコードに、たった一つはめ込まれたトリガー。それが、発生しつつある「雌」の流れを変えよと命じる。その命令により引き起こされる連鎖反応が、「雄」を創っていく。目に見えぬ「流れ」が私たちの運命を決定づける。生物は雌として始まり、そのトリガーが引かれない限り、雌となる。

印象深いのが、雄となる引き金遺伝子の発動と、それに続く連鎖だ。カスケードと呼ばれる反応は、膨大な情報を所蔵する染色体のあちこちで、反応し、その反応がまた新たな反応を呼び、雄を「創って」行く。

マッチョな男も、ひ弱な男も、男であると言うことは、たった一つの遺伝子が起動した結果である。

人ひとりの人生を川の流れに例える歌がある。人に運命というものが実際にあるとすれば、それは、大河のように緩やかなものではないと思える。私たちは、予定された河口へと、ただ、何事もなく流されて終わるのではない。

一本の河は沢山の河と合流する。それを「世界」と表現するならば、それは、沢山の河が集合しせめぎ合いつつ生起する反応の連鎖、連鎖の集積、集積のうねりなのではなかろうか。その大河となった流れが今現在の世界だとすれば、そして、元々一本の河だったものが、合流しても元の河であり続けつつ、大河のうねりに飲まれ、波に巻き込まれ、ちりぢりになりそうなまま、なお一つの、一人の、細い河としてあり続けるとするなら、そうしているものは何か。なにが私たち一人一人を、一人一人たらしめているのか。著者の前著を思い起こす。

人の運命と生物の雄雌の決定に相違があるとすれば、生物のそれは減数分裂した染色体が、性染色体(X染色体とY染色体)のどちらを持つか、あのホムンクルスがその小さな手にどちらの染色体を握っているかにかかっているという確率的なものだ。では我々が感じる「運命」はどうか。幸運であり不運であるのは、その何か一つのきっかけ、人の一生という一本の河に投げ込まれた小石がなんであるか、あらかじめ分かってはいないということだ。

流れゆく先に何があるのか、私たちには予想できない。何が何処で投げ込まれるのか、誰にも分からない。分かっているのは、その波紋が、一つの反応を生み出し、その反応がまた何かの反応を生み出すという、カスケードが「ある」と言うことだけだ。遠く、大河の向こう岸で起きた波紋が、いずれ私たちの身近に、思いも寄らぬ形で、押し寄せる。なかには、引きちぎられるものもあるだろう。

大河はカスケードの集積を飲み込みつつ、うねりとなって流れ続ける。そのうねりにもまれ、男と女が出会う。ホムンクルスの握った鍵により、男に「なってしまった」男たち。女性という「真っ当な」存在を見上げるホムンクルス。

大河とは、実は「女」なのではないか。「男」はそこで跳ねる魚か。いや、ひょっとして、岸辺に佇み、世界のカスケードを引き起こすことが、役割なのか。

生きる荒野

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書) (SWITCH LIBRARY 柴田元幸翻訳叢書)火を熾す (柴田元幸翻訳叢書) (SWITCH LIBRARY 柴田元幸翻訳叢書)
(2008/09/10)
ジャック・ロンドン/柴田元幸 訳

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出張の帰り、時間があったので新宿紀伊国屋に立ち寄った。新刊コーナーで平積みになっていたのを手に取り、ぴんと来たので購入する。

弱冠40歳で亡くなったジャック・ロンドンの短編集。代表作とされる『野生の呼び声』は昔読んだ記憶があるのだが、内容は忘れている。この人の経歴や代表作については、だから、語ることができない。しかし、それは幸いにも、新鮮な感動をもたらしてくれた。

帰りの列車の中で最初の2編を読了。夢中だった。表題作『火を熾す』と、次の『メキシコ人』まで読んで、後が続かなかった。終着まで時間があったのだが、次の『水の子』を少し読んだところで、これは時間がゆっくりと流れる中で読みたい、と思ったのだ。時間つぶしに読める本ではない。いや、最初の2作は夢中になって読んだのだからそういうことでもなさそうだ。1作読むごとに、その読後感を味わいたくなったのだろう。時間をかけて、何度も思い返す。

訳者後書きにも書かれていたが、作風は剛球ストレート。楽しんで作者とキャッチボールするような話ではない。ジャック・ロンドンが放つ小説の「力」を受け止めなくてはならない。それには準備がいる。

凍てついた極寒のユーコン川。その白い荒野を歩く主人公を描いた『火を熾す』は、おそらくこれから何度もフラッシュバックのように、私の頭をよぎるだろう。降り積もる雪の中、苦労してガソリンストーブに点火しているとき。しんしんとテントに当たる雪の音を聞きながらシュラフにくるまるとき。遠く、タイヤチェーンがリズミカルに音を立てる、凍てついた夜。あらゆる「寒さ」のなかで、情景が甦るだろう。

『メキシコ人』の暗い目をした青年。折に触れ、その憎悪を想い出すだろう。爆弾テロの犠牲者、圧政の中にある人たち。疲れた表情で銃を下げ歩く兵士。それらの光景を、あの暗い目と、醒めきった意識のはてに見えてくる狂気のような正気と生気を。

旅の終わり

パワー (西のはての年代記 3)パワー (西のはての年代記 3)
(2008/08/23)
アーシュラ・K・ル=グウィン

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(このさきはシリーズのあらすじ以上の内容に触れています)



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ネットのものがたり

老人と宇宙 (ハヤカワ文庫 SF ス 17-1)老人と宇宙 (ハヤカワ文庫 SF ス 17-1)
(2007/02)
ジョン・スコルジー

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解説を読むと、この人は映画評論などを手がけていて、いわゆるブロガーでもあったそうだ。そしてこの作品を自ブログで集中連載したらしい。事前のマーケティングも周到に行い、売るつもりで書いたら実際に売れた。すごい。

ネタバレしないように冒頭部分に触れると、恒星間旅行が現実になり、コロニー連合と呼ばれる太陽系外惑星への植民地が形成された未来。コロニー防衛軍(CDF)はコロニーを地球外生命体の侵攻から守る役割を果たしている。その防衛軍に入れるのは75歳以上の老人のみ。正式に登録されると、地球では法律上「死亡した」と見なされる。彼らはその老体に鞭を打って、CDFへと旅立つ。その旅の途中で、CDFの圧倒的な科学力(地球の技術では到底達成できないそれら)を見せつけられ、なぜ75歳以上の人間が必要なのか、彼らが戦士として活躍するためにどのような技術が使われるのかなど、ディテールが明らかになってゆく。

日本語訳のせいかもしれないが、センテンスが短い。テンポ良く進むと言えばそうなのだけれどコッテリとした描写があまりない。このあたりは、元々がブログで連載として読まれることを意識したから、そのエントリ単位で一読できるような作り方なのかなぁとも思った。

この点一時話題になったケータイ小説と、このような作品の、近似した部分なのかも知れない。ケータイ小説の場合は、展開が唐突であったり無理があったりして、読んでみたら「なんだこれは」という批判も多かったが、ネットにおける物語表現という点から見ると、それほど変なことではないように思える。なぜなら、それはある種の「語り」として機能するからだ。繰り返しがあり、飛躍があり、統一感がないように見えるが、実はそれが「語りの面白さ」だとわかれば。

この作品の面白さは、そういう語りが、ちりばめられる(短縮された)情景描写と並行しながら、どんどん進んでいくところにある。

ブログの面白さの一面が、ある種の「語り」構造にあるというのは、まちがいないだろう。ブロガーの、リアルな生活やその時のオピニオンとしてか、構想された物語のものか、という違いがあるだけなのかもしれない。

だからか、この本を文庫本として手にとって読み始めたとき、ある種のいらつきを感じた。読むテンポと展開が、どうも合わない。物語世界への理解と傾倒にいたるストーリーテリングの発展が、私にとっては、もたつきを感じた。印刷媒体を前提とした技法としての表現には足りず、かといって奔放な語り口でもない。

もっとぎゅっと、濃縮した感があれば、読むテンポと合ったのかも知れない。しかしこれも、そんなに構えずに、PCのまえでのんびりとエントリを流し読むような感覚だったら、そんなに違和感がないのかも知れない。

ネットで小説を書く、ブログで物語を書く・読むという行為と、(PC環境+テキストエディタが主流とはいえ)印刷媒体に書く意識というのは、やはりどこかちがうんだろうなぁと感じた。

与えられし、ちから

このエントリは西からの声を参照しています。



ギフト (西のはての年代記 (1))で語られるのは、「ちから」です。そのちからは自らの意志で発動するもので、おおかたは破壊的な影響を及ぼします。人をねじ曲げ、肉塊にし、病気にさせます。なかには時間を少しだけ戻す、というようなものもありますが、その世界の一般的な理解では、ちからすなわちギフトは、人を恐れさせるものとして語られます。

ギフトがなぜあるのか、それは明らかにされません。しかし、血縁により継がれていくものであり、濃い血は強いギフトを与える傾向にあるとされています。そのため、一族は、血縁を中心に形作られます。そしてそのなかで最も強いギフトを得たものが、一族の長(おさ)となります。長はその力を背景に、一族を統率し、他の一族の干渉から己の一族を守るように運命づけられます。

このため、かれらつまりギフトを継ぐ者たちは、悲劇的な運命に置かれるのです。一族と一族のぶつかり合いは、ギフトの力比べであり、より破壊的なギフトを持つ一族が、貧しい高地の富を得るのです。これは破壊的な力を秘めるギフトの持つ呪詛であり、その呪詛から彼らは逃れられません。

主人公である少年の、父親。彼が強力なギフトの持ち主であり、それゆえ憔悴し崩壊していくのは、その呪詛を象徴しています。

物語の主人公は、目隠しをした状態で登場します。それは己の中にあるギフトを封じるためです。暴走するギフトに怯える少年。そして、一族の長である父親から受け継いだギフトが果たして「本当に」自分にもあるのかを疑いつつ成長する少年。この少年の存在が、重要なテーマを提示しています。

ギフトの持つ呪詛、そしてそれへの熱望と疑い。人間の内奥にある「思い」が、極めて否定的なものとして、描かれます。それが、ギフトのテーマです。つまり、己の持つ「ちから」への憧れと疑いが語られていきます。

少年は成長します。そして、第一巻は終わるのですが、結末は書かないほうがいいでしょう。

ヴォイス (西のはての年代記) (西のはての年代記 2)では、人間の内に秘めた力から、発せられる「声」に視点が移されます。そしてその背景に、「書物」があります。内なる生きた力である「ギフト」、統制され制御されて発せられる「声」、そしてそれを紙の上に固定した結果である「文字」へと、テーマは変わっていくのですが、それはパロールエクリチュールという対比を著者が意図したのかも知れません。しかし、第一巻で提示される「ギフト」は、そのどちらでもない原初的な作用物として表されます。

この原初的な力としてのギフトは、何を象徴しているのでしょうか。

☆☆

言葉という点に関して、考えてみます。すでにおわかりのように、言葉には「ちから」があります。それは、言葉を(それが音であれ文字であれ)発する者の「内」から立ち現れる「ちから」です。その「ちから」は、対象となる者(対話者、読者いずれであれ)に影響を与えます。こう考えると、ギフトが「言葉」の一面を表した隠喩であることも想像できます。

言葉という「ちから」は、様々な作用をします。人を癒し、救い、勇気づけることもあれば、人を傷つけ、壊し、殺すことも可能です。また、その言葉を用いる「能力」もしくは「スキル」は、人により様々なレベルがあります。文学者や扇動家のような専門的能力まで高められた言葉があります。一方で、なかなかうまく伝わらない言葉もあります。

言葉はすべて、発する人の内奥から立ち現れるものです。それが含み込む想いは様々であり、また、表現も様々です。ある人は直接的な単発の表現を用いるでしょう。またある人は時間をかけた対話という形で用いるでしょう。なかには物語のような手法を用いて内奥を表現する人もあるでしょう。それら全てが、自己の内奥を誰かに伝えようとする試みです。

言葉が「祝福」であるか「呪詛」であるか。それが、言葉を通して他の人と交流を「試みる」私たち全てにとって、とても重要なことであるのは間違いありません。

己の発する言葉が「ちから」を持つと気づいたときから、私たちは祝福と呪詛のはざまに投げ込まれます。

その力の象徴が、ギフトだと思えます。

この本の主人公は、その力を「制御」するために、目隠しをすることを選びます。それは、自分の発する「ことば」が呪詛に満ちていると気づいたとき、口をつぐむのと同じかも知れません。

少年は内省し、自己の中にある「ちから」について考えます。それは、暴走すれば間違いなく人を傷つける「ちから」です。

☆☆☆

言葉により人を傷つけ、傷つけられる。そのさなかにいるとき、私たちは、自分の持つ「ちから」に怯えます。そして、もう誰も傷つけないようにと、口をつぐむかも知れません。少年が、自らを封じるために目隠しをしたように。

ここで、本書第一巻の最も重要なテーマが現れます。「ちから」とはなにか。

それは、その「ちから」に、私たち自身がどのような意味づけをするかにかかってくるように思えます。祝福か呪詛か。そしてまた、それが相手にとって祝福か呪詛か。そこから返ってくる反応は祝福か呪詛か。そしてその反応から…。

第一巻で描かれる土地は、ギフトという「ちから」によって形作られた「祝福」と「呪詛」の輻輳する土地です。人びとはそこから出て行こうとしません。その土地にしがみつき、ギフトの持つ祝福と呪詛に絡め取られたまま、不可解な運命の旅を続けます。

ル=グィンが描こうとしたことは、そのギフトを巡る呪詛の輻輳と、そこから逃れ出る「ちから」を持った存在だと思えます。ただ単に逃げ出すのではなく、どうすれば、進んでそこを出て行くことが出来るのか。

それは、私たちが経験する、言葉(ちから)による「祝福」と「呪詛」のファンタジーでしょう。

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