2006-08

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子猫を殺すことへの考え その3

  このエントリは子猫を殺すことへの考え その1 および その2 の続きです。

 前々回と前回を通じ、「猫と人間の関係は社会的要請で決まる」と言ってきました。その社会的要請が人間側に「義務」を産み、猫側に「権利」を産むと考えました。そして、その権利は社会的要請によって「限定された権利」であるが、しかしその限定された範囲内では「守らなくてはならない義務」であると言うことを書きました。

 その点からいけば、作者の行動は「動物虐待に当たる」とするのが私の考えです。「猫の権利」を不当に奪っていると考えるからです。

(ただし。ここで言う「猫の権利」というのは、繰り返しますが「人間と猫との共生に必要な社会的要請」ということに限定して、考え方の補助として「権利」という言葉を使っているだけです)

 さて、問題は社会的要請というものが果たして明確に決められているのかどうかです。

 ひとつには歴史的背景があります。一番最初に書いたように、日本でも数十年前までは必要に迫られてということもあり子猫殺しが行われていました。

 しかし、現在では子供を産ませない処置(避妊手術)が発達し行き渡っているようですので、必要に迫られて子猫を殺すということは起きにくくなっています。

 そのほか、動物愛護思想が発達し、「動物に不必要な苦痛を与えてはならない」という考え方も普及してきています。

 そういう社会であれば、子猫殺しは「猫に苦痛を与える」として、行ってはならない行為として認められると言えるでしょう。その「苦痛」が具体的に何であるかは、猫でない人間に分かるものではありませんが、苦悩、苦痛をある程度想定することが出来ます。そして私たちは「罪悪感」を持つからこそ想定できる(時代の変遷はあるにせよ)のです。

 ついでですがこの感覚はいわゆる「共感」で、この感覚が発達していない子供により動物虐待が誘発されると言う指摘もあります(前掲の「動物虐待の心理学 子どもが動物をいじめるとき」)。

 社会的要素についてもう一つ示します。

 その国、地域で発達してきた考え方をもとにして、社会的要素を考えるのが非常に重要だと思えます。なぜなら、同じ猫にしても「三味線の皮」に使われているのは「文化」ですし、犬で言えばそれを「食べる」のも文化。その国固有の歴史の中で育まれてきた要素です。

 ですから、私は「三味線の皮に猫を使うのは許せない」とは言いませんし、「犬を食べる国」に対して「それは犬の権利に反することだからやめろ」とは言えません。逆に(飛躍しますが)鯨を食べるのが悪いことだとはちっとも思っていません。絶滅する危機があれば中止もやむを得ないでしょうが、決して「鯨の権利」など持ち出しません。

 この日本であれば、法律で次のように決められています。

「動物の愛護及び管理に関する法律」
第2条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。


 これは遵守されるべきでしょう。

 その点で、作者は間違った行動をしていると見なすことが出来ます。

 そういう人物が近くにいてほしいとは思いませんし、もしいた場合はそういう行為をやめさせなければならないと、私は考えています。そのために、今まで書いてきたような考え方が必要だと思っています。

 最後にメディアとの関連も少し書いておきます。

 あの文章を読んだ私個人の感想は「タヒチあたりで自然呆けしたおばさんが好き勝手なことやっておるなぁ」なのですが、その文章をそのまま載せたメディアは非常に卑怯な態度だと思います。

 ああいう文書をほとんど無批判で載せているとするなら、そのメディアは今後、動物虐待に関連した報道に対する姿勢を問われるでしょう。

 たとえば(「クローズアップ現代」で放送されましたが)最近の愛玩犬繁殖において極度の近親交配が行われ、その結果致死的なものを含め重度の畸形が沢山生まれるという事実。そしてその畸形を廃棄(殺処分)している事実。その背景には私たち人間の「好み」により、珍しい毛色が珍重されるという需要がある事実。

 掲載したメディアは:
 日経社長室は「原稿の内容は、筆者の自主性を尊重している。今回の原稿も事前に担当者が筆者に内容を確認した上で掲載した。さまざまなご意見は真摯(しんし)に受け止めたい」と説明している。
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2359247/detail?rd


 ほうほう。

 では今後、仮に「ある繁殖業者の手記 近親交配も畸形も殺処分も、自分が納得して行っているし、社会がそれを望んでいるから正しいのだ」という手記が寄せられたら、業者の自主性を重んじて堂々と載せていただきたいものです。叩かれまくるでしょうけど。

 最後にちょっと一言。

 避妊処置を「断種」と呼ぶ向きもありますが、これには同意できません。「癩病患者」に対する「断種」、「精神疾患患者」に対する「断種」は(医学の未発達による偏見・無知とか社会ダーウィニズムが引き起こした)忌まわしき愚行であると思います。現在の動物への処置と同列に語ることは出来ないものであろうと思います。

 この項 終わり
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子猫を殺すことへの考え その2

 このエントリは子猫を殺すことへの考え その1の続きです。各引用文は全て前のエントリからの再掲です。

 前回は人間と猫が共生するために必要な「人間側の義務」とそれから発生する「猫の権利」について書きました。ここで言う「猫の権利」は「生きていく上で必要最低限の権利」とし考えました。そのなかで人間側の義務によって限定される「不必要な苦痛を受けない権利」があるのだ、と書きました。

 その権利は拡大解釈されてはならないと思います。つまり、「かわいそうなことはしてはいけない」ということのみで「あなたは猫の権利を奪っている」という解釈をしてはならないということです。

 なぜなら、「かわいそう」というのは私たち1人1人によりその基準が違う主観的な判断になるため、「不必要な苦痛を受けない権利」そのものが恣意的に、それこそその人の「想い」一つでどうとでも変わる不安定なものだからです。

 さらに、その猫の権利を個人の価値基準にのみ置いて考えるなら、下記のようなことを認めることになります:


 それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。


 ここで言われていることは一見正しいように思えますが、「自分の納得できる道」ということは、結局「自分の勝手な考えで行える」ことを認めることになります。

 これでいくなら、妊娠した猫の腹を蹴って流産させることも、餌を与えないで衰弱させて産ませないようにすることも、全て「自分が納得した道」ならばそれでよい、という結論になります。

 つまり、「愛玩動物として猫を所有しているならば所有者は猫に対して何をしても良い」という帰結になります。

 それはもちろん:

もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。


 このようなエクスキューズを入れようとも事実は変わりません。それよりも、「自分の気持ちが納得するなら猫にどんなことそしてもよい」という主張に変化はありえません。

 私は、これは独善的な考え方だと思えます。

 なぜこのような独善が発生するかというと、作者は「猫と個人」の関係の中に、「社会」というものを(意図的にかどうかはわかりませんが)全く考慮していないからです。

 作者の考えでは猫は「自然」のものですから、人間社会とは何の関わりもない(むしろ無理矢理社会に取り込まれている抑圧された存在)です。そして作者自身は「自分がより納得できる道」という表現で考えています。

 猫が人間社会と共生関係にある、という視点が全く抜け落ちているため、私たち人間側に課される「義務」というものを考えることなく、自分の「思い通り」に猫を扱うのです。その扱いを倫理的に裏付けるものとして「自分の悲しみ」を持ち出していますが、これも「社会一般に通用する(認められる)ものかどうかは頓着していません。あくまでも「自分の悲しみ」にとどまります。

 ここで少し視点を変えます。

 虐待という言葉を良く聞きます。「しつけ」と称して子供にご飯を与えなかったり、激しい体罰を繰り返したり。もしくは生まれ落ちた子供をロッカーに捨てたり。

 これは許されることでしょうか?

 「自分の子供なんだから自分がどうしようと勝手だろう」という理屈が、通りますか?

 もちろん、猫と人間は違うと言うことは当然言えるのですが、筆者が猫を自由にして(放任)、子が生まれると投げ捨て(動物遺棄)、それを繰り返す(放任)という構造として同じではありませんか?

 動物だから、人間と違うから関係ない話だ、と言ってしまえば、私たちはあらゆる動物に対し行われる可能性のある行為に対して(たとえば殺そうが閉じこめようが切り刻もうが)何の抗議も行えないのではないでしょうか。

 ある動物虐待の定義を示します。

 「動物に、必要のない痛み、苦しみ、苦悩を意図的に与え、および/または死に至らしめる、社会的に受け入れがたい行動」

出典:子どもがどうぶつをいじめるとき 動物虐待の心理学 フランク・R・アシオーン著 横山章光訳 ビイング・ネット・プレス p77より引用


 ここで重要なのは「社会的に」というところです。牛や豚の屠殺、家畜の子の必要な間引きなどは、「経済動物」として必要な処置として社会的に同意されています(一部反対意見はあるでしょうが)。それとは別に、人間社会と共生している猫の場合も、社会的に同意を得られる形での「関わり」があり、その同意の範囲内で、私たちは猫という動物を扱うべきなのです。

 作者の視点には、繰り返しますが、そういう視点は全くありません。

 偽善的、独善的な、子猫殺しという行為があるだけではないでしょうか。

 (また長くなったので次回へ。つぎ、とりあえずまとめます)

子猫を殺すことへの考え その1

 まだ考えが十分纏まっていないので覚え書きとしてエントリします。(2006/08/26改訂)

 まず問題となる文書を掲載します。そして私個人の経験を示します。続いて、この文章がいかに間違っているかを指摘します。

プロムナード(日経新聞8月18日夕刊) 子猫殺し―――坂東眞砂子

こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。
タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。
子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
私は猫を三匹飼っている。
みんな雌だ。
雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。
残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。
当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。
タヒチでは野良猫はわんさかいる。
これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。
しかし、どうも決心がつかない。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。
猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。
だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。
生きるための手段だ。

もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。
しかし、それは飼い主の都合でもある。
子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。
だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。
私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。
子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。
避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。
どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。
獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。
生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
人は神ではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)
引用もとはこちら



 私が生まれ育ったところが田舎でしたので、野良猫(今で言う地域猫?)とか飼い猫が納屋に子を産んでいるのを見つけると、その納屋の持ち主(祖父もそうでした)は子を全て捕まえて川に流していました。もう20年も前のことですが、そういう光景は多くはないとはいえ日常的でした。

 しかし、猫はネズミを獲るというところから、場合により一匹だけ残して継代させることもしていました。その点では「命の選択」が行われていたということです。

 小川の流れに乗って消えていく子猫たちを入れた袋を見送るとき、私は反射的に手を合わせようとしましたが、「だめだ」としかられた覚えがあります。

 しばらく見送る祖父と私。見届けてから家に帰るのですが、無言でした。

 そこから何かの経験を得たかと言えば、わかりません。しかし、袋の中で息絶えていくであろう目も開かない子猫たちの様子は想像できましたし、今でも覚えています。

 その当時の事情により「増えれば困るから殺す」というのは、致し方ないことだと思います。残った子とか親はかわいがられました。猫の名を呼んでかつお節を与える祖母の姿は日常的でした。

 さて、件の子猫殺しの記事を知ってからわき起こってきた記憶を元に書きましたが、これを元に該当文書への批判を少しまとめてみます。

 諸事情により殺さざるを得ないという私の経験からすれば、それは必ず「罪悪感」を伴います。(一部異常者を除きます。動物虐待については項を改めます)

 子猫を川に流した祖父が「手を合わせるな」と言ったのも、「畜生を殺す罪悪感」を感じていたがゆえの、自身の信仰に対する後ろめたさの裏返しでしょう。
 
 その「罪悪感」は、何を持ってしても埋められません。問題の文章の筆者も罪悪感は認めているようです。

 しかし:

愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての『生』とは、人間の干渉なく、自然のなかで生きることだ


 これはとんでもない間違いだと思います。猫にしろ犬にしろ「愛玩動物」というのは長い時間をかけて人間社会に取り込まれ適応して来た歴史があります。害獣駆除・狩猟補助・テリトリー警戒などの特性をもつ動物を人間が選択し、育ててきた経緯があります。

 そういう動物をいま「飼育」する時点で、それはすでに「野生」ではないのです。

 そういう間違いに立脚して:

人間は、避妊手術をする権利もないし、子猫を殺す権利もない


 このように「権利」を持ち出すことが、重ねて間違いになります。このように「権利」を出すことは、忌まわしいとさえ言える妄言に思えます。

 猫という動物を「飼育」している時点で、私たち人間には「人間社会で共生していくために必要な処置を猫に施す場合にはその苦痛を最小限に抑える義務が課される」のです。これは筆者も書いているとおり:

人は神ではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。


 その矛盾や不合理を埋めつつ共生していくために、私たち人間側が何らかの方法を考えなければなりません。そしてその解決方法として生まれてきた「義務」は、私たちの社会が共通して守らなくてはならないものです。それであってこそ、猫が享受できる「権利」というものが保証されます。

 その「共生のための処置」が何であれ、一つの生命に対し何らかの干渉をすると言う点で、場合によりある種の罪悪感を伴うのは当然ですし、その罪悪感を、私たち人間社会が「納得する形で」軽減する必要があり、それが猫の「苦痛」を最小限にしなくてはならない「義務」にもつながるのです。

 その点で、まさにその一点で、猫は「(不必要な)苦痛を受けない権利」が生じるでしょうが、それは「猫が自然的に持っている」権利では断じてありません。それは私たちが猫を飼育するという状況で発生する義務の裏返しであり、飼育されている側の動物に最低限保証されるべき「苦痛のない生活」という限定された範囲での「権利」です。

 そこを間違えて、「猫にも生得的な(人間と同様の)権利がある(=野生の動物として人間に干渉されない権利→人間には猫を手術する権利もないし殺す権利もないと言う理屈)」とするため:

愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ


 という理屈になるのです。

 これを言うなら、「だったら猫を飼うな」と言うことになりますし、世界中の、猫を飼っている人たちを糾弾し、「一匹残らず自然に帰せ」と主張するべきでしょう。また、その考えのもとでは猫は人間の勝手な考えにより不当に飼育され抑圧されている存在だと言うことになりますし、それがために「(もともと不当に扱われている存在である)猫が嫌がるようなことを何もしてはいけない」とする絶対的な「権利の横暴」へと発展します。

 ですから、以下のように「獣の性」を絶対視し、共生関係にある人間を悪と断罪するのです:

獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。


 その「本質的な生」を無制限に許容した場合、人間と猫の共生は不可能になります。そしてこの考えをもう少し拡大すれば、「牛も豚も飼うな。人間の都合で(食糧として)殺すな」ですし、その上で人間社会に「獣」が「存在」することを許すなら、歴史的に見れば(呪術的意味合いは多々あったにせよ)「生類憐れみの令」に似た状況、狂った決まり事がまかり通る世界でしょう。

 …しかし、作者はそういう態度をとらず、猫を飼い続けます。これは明らかに、作者の論から言えば「抑圧され不当に扱われている動物を、それと認めつつ飼い続けて」いる偽善的行為です。この偽善的行為をやめるには、ただ飼わなければ良いだけなのにもかかわらず、です。

 さて、「罪悪感」を軽減しつつ「猫の苦痛を抑える」義務を課される人間側にとって、何が一番有効な方法なのでしょうか。

 安全に避妊手術を施すことでしょうか。子猫を崖から投げ捨てることでしょうか。

 冒頭の猫を川に流す話に戻りますが、その後母猫はどうしたかというと、吸われないお乳を一杯ためた乳房を腫らしつつ、子猫を一生懸命探します。時には二日も三日もうろつきます。ろくに餌を食べに帰っても来ません。

 やがて猫はまた子をはらみます。年に2,3回は子を作ります。

 そして、今度は見つからないようにしようというのか、場所を変え、隠れて産み、見つかり、子はまた流されます。

 今思えば、そのとき手術をさせてやった方がどんなにか楽ではないかと思えます。

 あの筆者は、それをどう思うのでしょうか。大変疑問に思えます。

 (長くなったので、続きは後日。動物虐待を視野に入れます)

いくさのことば

 考えさせられる言葉だったのでメモ。

「無駄ではない」ことが、生き残った人々の誇りであり、亡くなった人の墓碑銘であるだろう。

"Not in vain" may be the pride of those who survived and the epitaph of those who fell.

Sir Winston Leonard Spencer-Churchill
wikiquoteより 以下同じ



 これが第二次世界大戦の戦勝国という状況で発せられた言葉にしても、関わった人たちの「死」はどんなものであれ無駄ではないと思いたいです。もし「無駄な死」としてしまうなら、人間は繰り返す戦争から何も学ばないということですから。

 死ぬ準備はしてあるが、殺す準備をする理由はどこにもない。

I am prepared to die, but there is no cause for which I am prepared to kill.

Mohandas Karamchand Gandhi



 確かに「殺す準備」をしているのが軍隊なわけですが、同時に「死ぬ準備」をしているのも軍隊。

 決して、諦めるな― 決して、決して、決して。大事か些事かに関わらず、それが名誉や良識に確信があるのでないかぎり、屈服してはいけない。力に屈するな。敵が一見圧倒的であろうと屈するな。

 Never give in― never, never, never, never, in nothing great or small, large or petty, never give in except to convictions of honour and good sense. Never yield to force; never yield to the apparently overwhelming might of the enemy.

Sir Winston Leonard Spencer-Churchill



 名誉や良識とは何だろうかと考えることも良くあるのですが。

医療費未払い増加に思う

 公立病院での医療費未払いが増えていると聞いて久しいのですが、気になる点をいくつか。(記事のさいごに引用あり)

 まず、未払いの原因を列挙すると:

1 低所得者の増加
2 医療費自己負担の増加
3 患者のモラル低下

 となっています。これは個別の原因ではなく相互に関連しあっているものでしょう。低所得者になるにつれ自己負担に対する負荷感が増して、それがモラルを突き崩していく図式が見える気がします。

 病気はいつやってくるかわからないもの。そのことのために手持ち現金をプールしておく余裕はないわけです。「モラル」といってもなんだかぴんと来ませんが、「手持ちで自由になるお金はあるが、ほかの事に振り分けたいし、そのように計画してしまっている」ことから「可処分所得を医療費に振り分ける余裕がない」となり、結果として「できれば払いたくない」になるのでしょう。

 このような気分が広がると「低所得者層」と言われる人たちのあいだで「踏み倒しも辞さず」となることでしょう。これは一概に「モラル低下」といえるかどうか?

 もちろん例外もあるでしょうが、もし「無い袖は触れない」立場の人たちの増加とそれにより自衛的に治療費を払いたがらない心理の増大をもって「モラルが低下した」と言うことならば、「貧乏人は盗人根性がある」と決め付けているようなものじゃないかと思えます。

 一方、医療費自己負担の増加が「病院にいきたくない気分」にどのくらい影響しているのかをみるのには、別の視点が必要となります。

 長瀬指数というものがあり、これは医療費負担率とそれに伴いどれくらい受診が抑制されるか(逓減率)を示す数式ですが、それをもとに見てみると医療費負担無料の場合を1として、下記のように受診抑制が起こります。

1割負担 0.848
2割負担 0.712
3割負担 0.592
4割負担 0.488
5割負担 0.400
6割負担 0.328
7割負担 0.272
8割負担 0.232
9割負担 0.208
10割負担 0.200

2割負担のときは70%の人が受診するのに3割本人負担だと医療需要のうちの約60%受診と減少し、4割負担で50%を切ることになり、全額負担(無保険ですべて自己負担)となると20%の人しか病院にいかない、と言うことになります。
神奈川県保険医協会より


 今現在の健康なサラリーマン層ですでに「病院に行きたい人」のうち40%は「行かない」判断をしていることになります。

 しかし、この40%の人たちにも病気やけがは平等に降りかかってくるわけで、これが手持ち金の医療費への振り分け抵抗から未払いにつながる「モラル低下」の一因になっていることは比較的容易に推測できます。

 で、だれが自己負担比率を上げたかというと、公立病院のボスである厚労省と国ということです。つまりは(さまざま自己負担増をせざるを得ない理由は国側にもあるにせよ)国の決めた制度により公立病院での未払いが増える、という現象となるのでしょう。そのために病院の収支が悪化して十分な医療行為を実施できなくなると言う馬鹿なことになってきていると思えます。

 また、「低所得者層の増加」という点で見ると、はっきりいって日本国民のいったいどれくらいの人が「自分は低所得者ではない」と言い切れるかということもあります。実際に生活保護を受けなくてはならないほどの低所得者でも、生活保護制度そのものの厳しさにより生活保護を受けるに至りません。また一般的な世帯でも各種ローンや教育費、老後資金確保など「将来的な備蓄と長期生活設計」のもとに家計をやりくりしているのが実情で、さらに刹那的な遊興費も使わざるを得ないところです。

 そういうなかで、突発的に生じる「医療費」は、予定外の経済的負担でしかありません。

 もともと、そういう「予定外の経済的負担」軽減のために機能していた面もある「国民皆保険」制度なのに、自己負担率引き上げにより予定外の出費が以前より重くのしかかってくるなら、それを回避するために「医療費踏み倒し」とか「出来るだけ後回しにしたくて支払いを引き伸ばす」という心理が動いたとしても不思議はありません。

 「モラル低下」というのが医療費未払いの原因のひとつとするのは、(繰り返しますが本当のモラル低下もある得るとは思えても)そういった点で疑問の残る考え方だと思えます。

 さらにいえば、今後さらに国民皆保険制度が崩れれば保険料未払い問題は無くなるかもしれないが踏み倒しは必発でしょうし、事態はさらに悪化するでしょう。

 極端な話、医療機関にかかる際に所得証明なり納税証明を別途要求される事態もありえます。

 いまの医療体制で未払い問題を低所得者層増加や受診者のモラル低下を原因として簡単に考えるのは、乳牛に「えさは食べるな、乳を出せ」と言うような傲慢が見え隠れするような気がします。

 株や経済活動全般はともかく、医療という国民生活の基盤こそ国が低所得者保護の姿勢を堅持していかなくてはならないものだと思うのですがねぇ。

 
公立病院の治療代未払い急増 低所得者の増加など影響
都道府県と政令指定都市が運営する全国248の公立病院で、患者から支払われていない治療代(未収金)が昨年3月末で1病院あたり約3300万円に上っていることが、朝日新聞社の調査で分かった。過去3年間で1病院あたり1000万円も増え、1億円を超える病院もあった。自治体の多くが低所得者の増加と医療費の自己負担引き上げが原因と回答。03年度のサラリーマン本人の負担増など、国の医療制度改革も未収金急増に追い打ちをかけた格好だ。病院経営の圧迫要因にもなりかねず、各自治体とも対策に苦慮している。

 計62自治体に質問票を郵送し、1年以上未払いの治療代などを尋ねた。61自治体が回答した。

 この結果、未収金の総額は昨年3月末で80億7686万円。1病院あたりでは、02年3月末に2250万円だったが、03年2650万円、04年2941万円、05年3256万円になっていた。

 病床数や開設診療科などによって病院ごとのばらつきはあるが、自治体ごとに1病院平均をみると、沖縄県(病院数7)は1億3093万円、仙台市(同1)は1億7862万円、札幌市(同1)は1億3860万円。一方、北海道(同9)は839万円、福岡県(同5)は770万円、熊本県(同1)は98万円だった。

 未収になりやすいケースとしては、高額の手術や入院、救急患者、出産時の入院などが挙がった。「国民健康保険料の滞納で保険証を交付されず、保険適用分も含めて、いったん全額を払わなければならない人の未払いも目立つ」と答える自治体もあった。

 未収金発生の原因(選択式、複数回答)では、「低所得者の増加」が74%で最多。具体的には「生活保護には至らないが、生活が困窮している患者」(埼玉県)、「年金生活者、多重債務者、無保険者、失業中の人」(鳥取県)などだった。貯金ゼロや生活保護世帯の急増が背景にあるとみられる。

 次いで「医療費の自己負担増」が64%。高齢者の1割負担徹底(02年10月)▽サラリーマン本人負担の2割から3割への引き上げ(03年4月)▽高額な医療費の負担上限を上げた高額療養費制度の改定(01?03年)といった政策との関連を各自治体とも指摘。「02、03年ごろの負担割合引き上げから顕著」(福井県)、「負担増に伴って増加傾向」(横浜市)などとする見方が多かった。

 「患者のモラル低下」は31%。治療後、連絡がとれなくなる例もあった。

 未収金が経営に及ぼす影響(選択式)については、41自治体が「(経営難の)要因の一つ」と回答。簡裁を通じた督促や訴訟などの法的措置をとる自治体も出てきていた。同時に聞いた「病院経営での累積赤字」の総額は8011億円に上っていた。
2006年04月09日06時12分

YouTube TEST

 YouTube のリンクを扱うのが初めてなのでテスト。

朝まで生テレビ 呉智英 人権について

8/21 This video has been removed by the user.
残念ながら削除されてしまったようなのでリンクを解除しました。

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全体主義的マスメディア

 TBSの亀田問題に関して、同意できる一文があったので引用します。

TBSの社会正義とは、視聴者に問題を提示して、自立した人間として考えることを促すことではありません。TBSの社会正義とは、端的に言えば、「(左翼的な価値観から)大衆を正しい方向に導くこと」です。そしてその「崇高な目的のためにあらゆる手段は正当化される」のです。

これはまさに全体主義です。こうした全体主義的社風が、ニュースの偏向に限らず、抑制のきかない詐欺行為を生む土壌となるのは、全体主義的世界には自立した個人の存在する余地はなく、そこにいるのは顔のない大衆だけであることを考えれば、想像に難くありません。今回のボクシング詐欺は、一見すると左翼的価値観とは正反対の拝金主義に見えますが、根は一つなのです。
TBSは全体主義者である


 通俗的な「みぎひだり議論」では、なかなかこういう考えに至らないのではないかとも思えます。つまり、メディアのプロパガンダを考える上で、リベラル・改革・進歩主義対保守・反動(この言葉も政治用語でしょうけど)という単純な構図ではなく、もうひとつの軸として全体主義を据えた保守、リベラル、全体主義という構図を(昔から保守の立場の人たちが指摘していたように)改めて想定しなくてはならない、ということでしょう。

 その意味で、上記エントリはプロパガンダ(煽動)を行なうメディアという視点から見て面白いと思います。

 プロパガンダは全体主義に特有のものではありません。ナチスドイツ(民族主義)、中国共産党(文化大革命)や北朝鮮(民主主義(Democratic People's Republic of Korea))のプロパガンダは、大衆が全体主義を「選び取った」時点で最大限にその威力を発揮しましたが、いわゆる非全体主義国家にも、それ相応のプロパガンダ戦略はあり、着実にその効果を上げています。

 全体主義国家との相違は、政府によりメディアがすべて支配されていないというだけです。逆に、各メディアがさまざまなプロパガンダ戦略を用いる「多中心現象」が見られます。

 こういうなかで情報の取捨選択をせざるを得ないのが、現在の我々がおかれた立場でしょう。

 全体主義形成の背景にデモクラシーがあるという指摘がされているわけですが(中川八洋)、たしかに、大衆の政治参加が「個の自由を完全に奪う」危険性を常に内在しているという認識があれば、上記エントリのような考えに至るのはごく自然な流れでしょう。

 あと、コメントの中に宮台の島宇宙の比喩がありましたが、あの部分は確かにそう思えます。が、そのコメントの他の部分はまったく同意できず。(苦笑)

アウトカム?プロフェッショナルの態度?そこに対話はあるのかい?

 アウトカムという用語は、はてなでは

アウトカム:その人の持つ目的や目標、あるいは望ましい状態のこと。(NLP用語)


としています。ちなみにNLPは neuro-linguistic programming 神経言語プログラミングという自己啓発セミナーで使われる用語とのこと。

 このことはとりあえず関係ないのでうっちゃります。(^^;

 アウトカムという言葉は医療現場でもよく使われます。

 この場合アウトカムは「目標とする治療結果」を含意しています。アウトカムは臨床的アウトカム、患者由来アウトカム、経済的アウトカムというふうにその「目標」をいくつかの項目に分類します。

 その項目を総合的に勘案して、臨床医は目の前の患者に対して「個々のアウトカム」つまり「その人にとっての目標とする治療結果」を設定します。

 たとえば慢性病など治りづらいものは「治療により病気をなくす」のがすべてではありません。患者の生活の質も維持し、経費も考慮されます。また、治療結果を受け取る患者の希望、たとえばつらい治療はいやだとか、仕事の都合で時間がかかるものは勘弁してほしいとか、何が何でも治してほしいとか、信仰する宗教(この点はアメリカでのことですが、いずれ日本も…)などの主観的要求、内面的なものも含めて考慮されることになります。

 つまりアウトカムは臨床医がマニュアルに従い診断してマニュアルに従い治療方針を決めるものではなく、患者と向き合い、双方の対話を通じて決めてゆくもの、言い換えれば治療者と被治療者双方向のコミュニケーションの結果として導き出されるものといえます。そしてそのアウトカムは患者個人個人が別の人間である限りそれこそ「無数にある」と考えられます。

 そのアウトカムを設定する治療者側には、治療技術と医療知識だけでなく、千差万別な被治療者と対話しベストなアウトカムを設定できるだけの判断力、人格的受容能力、時間的余裕がなくてはならないわけです。

 このアウトカムが重要視されるに伴い、医者が医者としてプロフェッショナリズムを発揮していく(つまり被治療者が満足すべき治療結果を実績として残していく)上で対話能力が必須条件となってきています。

 この医療の世界で起きていることを一般化してみると、対人関係を基本とするプロフェッショナルは顧客の要求多様化にともない(顧客ニーズの背景に秘められた情報に目を向ける)アウトカムの視点に裏付けられた対話能力を身に着けることが必要要素と言えそうです。

 これを逆の視点で見てみると、顧客ニーズが一定している場合は、アウトカムを考慮せずマニュアルで対応することで十分だともいえます。例としてマクドナルド。商品は一定で、顧客もそれを目的に来ますから、対応はマニュアルで十分でしょう。ですから、顧客対応ではプロフェッショナルでなくともよく、実際に、アルバイトでも可能なわけです。マクドナルドの場合は「こちらもいかがですかぁ?」という問いかけでもう一品買わせるとか、期間限定商品で集客アップをして収益増を図ることができます。

 医療現場に話を戻すと、マニュアルどおりの治療しかしない医療機関(そんな機関を想定するのは極端かもしれませんが)、多忙で対話時間の取れない医療機関ほど、患者の不満が多くなる傾向になると予想できます。また、救急病棟など対話不可能な状況の場合も、あとで本人もしくは家族から不満が出る可能性が高いでしょう。

 医療機関を例にとって見てきましたが、いまの私たちが住む社会はニーズの多様化ということが言われて久しい状況にあります。そして、そのニーズに応えるために、「対話能力」が必要とされてきているのでしょう。

 そして、それは、過去の日本においてそれが必要とされていたころとは比べ物にならないくらい高度で密度の高い要求となってきているのではないでしょうか。

 (このエントリはまだ一部練り直しが必要かもしれないので書き直す可能性があります)

戦争プロパガンダ10の法則

ちょっと興味を持ったのでメモ。

1 我々は戦争をしたくない。

2 しかし、敵側が一方的に戦争を望んだ。

3 敵の指導者は悪魔のような人間だ。

4 我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う。

5 我々も誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為におよんでいる。

6 敵は卑劣な戦略や兵器を用いている

7 我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。

8 芸術家や知識人もこの戦いを支持している。

9 我々の大義は神聖なものである。

10 この戦いに疑問を投げかける者は裏切り者である。

  アンヌ・モレリ
  引用もと 戦争プロパガンダ



 全体主義国家・非全体主義国家を問わず、戦時にはこの手の宣伝を良く聞くものです。

 また、プロパガンダというものの性質上、この法則はもっと一般化して用いることも可能だと思えます。たとえば経済行為においても、カルトにおいても、隣人とのいさかいにおいても、換言すればマクロな事象からミクロまで。

 この点で、プロパガンダを「戦時の特殊な表現技術」とは捉えられないだろうといえます。

 プロパガンダがわかりやすく、説得性を持ち、繰り返し用いられるならば私たちは比較的簡単にその効果に乗せられてしまうということも指摘されています。(扇動の研究  O.トムソン)

ボクシングタイトルマッチ

 ロッキー?のテーマは懐かしい。昔、トレーニングには良く合うのでこればかり聞いていた。特にsurvivorがお気に入りだった。今もこのサントラを聞くと当時を思い出す。

 そこで。

 亀田。今後バーニングハートを使うな。
 ついでに登竜門セットもせり上がり舞台もやめろ。

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