2006-09

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firefoxのエンジン切替機能拡張を使ってみた。

 今現在FireFoxをブラウザとして使っているんですが、IEとの差異をときどき感じます。

 たとえばNinjyaToolsなどでアクセス解析する画面にいくとき、FireFoxだとフレームによりリンクが効かなくて指定した日の解析画面にいけないなどの誤動作を起こします。

 当座の解決方法としてIEを別途立ち上げて解析画面に行くようにしていましたが、これが面倒で困っていました。立ち上げの手間も喰うし、再ログインさせられることが多くてもう。

 んで、FireFoxの機能拡張を用いてみました。ブラウザのレンダリングエンジンを一次的一時的にIEの仕様に切り替えてくれるというものです。

 IE Tab

 サイト表記は英語ですがインストールすると日本語仕様になっています。

 これが便利。ブラウザウィンドウの右下隅に出るIE Tabアイコンを左クリックすると、現在表示されているページがIEエンジンで再度読み込まれて表示されます。あと、該当画面を別タブで開く(中クリック)もあります。設定でずっとIEエンジンを使うとかのオプションも選択可能。

 何より良いと思ったのは、特定のサイトはIEでなければだめだとして、それを記録し、そこに飛んだときだけ自動でIEエンジンを使い読み込んでくれるオプション設定ができること。

 これを使ってからは上で書いたようなトラブルは今のところ皆無。

 さらに、IE独自のフィルタ機能なども使えるようです。

 参考:Alpha(opacity=50 ,style=2)で無駄にエロい

 そのときはIEを立ち上げて見なければ分からなかった表現がワンクリックでばっちり。ぱちぱち。

 あと、Fasterfox も便利。インストールするだけでブラウザ体感表示速度がかなりアップします。

 いやぁ。FireFoxって良いですねぇ。
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子猫殺し 坂東氏の狂気

 おそらくは政治的判断もあるのだろうとは思いますが、坂東氏のエッセイを巡って当地の政府が告発を検討している模様。

 それはそれとして、毎日新聞に坂東氏から寄稿された文章を見ました。(最後尾に引用掲載)

 ふたつほどポイントがあると思えます。一つは毎日新聞の視点、もう一つは坂東氏本人の考え。以下、これらを考えてみます。

 まず、記者の考えを引用:

動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。【鳴海崇】


 この鳴海なる記者の考え方がそもそも勘違いだと思われます。事の発端となった坂東氏のエッセイが彼女自身の心の病理を著しているという指摘と彼女の考え方を社会の病理・animal careに対する私たちの心のゆがみとして同一視しているのです。

 これは全くの間違い。私が思うに、坂東氏は坂東氏として、考え方が病んでいる。この件に関しては後述しますが、坂東氏がバランスを崩した考えを持ち、その結果として子猫を殺すのであるから、それは間違いであると指摘し、行為をやめさせ、なおかつ坂東氏の心の闇に立ち入っていかなければならないのです。このため、坂東氏は動物虐待行為者として法的に裁かれねばならないと思います。その、個人的病的行為と私たちの社会が抱える構造的問題を一緒くたにすれば、「社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない」という、少数弱者の権利尊重みたいなくだらない論理になるのです。

 鳴海なる記者は、坂東氏の心の問題には全く関心が無く(もしくはそれを直視する能力が無く)、社会の問題としてテンプレート的にことのうわべをなでただけの意見を述べているにすぎないと思えます。だから、坂東氏が今回寄稿した文の最後に出てくる「言論弾圧」という言葉に寄り添って考えてしまうのです。

 少数の意見を尊重しろと言いつつ、大多数側が大多数であるが故に間違ったものを間違っていると指摘できないのなら、それこそが弱者神聖視の言論弾圧でしょう。

 さて、それらはまぁどうでも良いことかもしれないですからこの辺にして、坂東氏の言葉に迫ってみたいと思います。

 もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。
 坂東氏



 バカですか?

 動物と人間の尊厳を同一視してしまっている。極端に言えば「人権」と動物の持つ生存本能を同一視している。

ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。
坂東氏



 これらは「国家が国民の基本的生存権を侵害して不当に権利を奪った行為」ですから、指弾されてしかるべきです。しかし、この理論を動物にまで広げるのは極論なのです。坂東氏は苦し紛れにこんな表現をしたのではないかと思えますが、何でも「人権」と言えばいいというような忌まわしい考え方が見え隠れしています。しかも、ここで言う人権はいわゆる「クソ人権」で、呉智英氏言うところの「人権真理教的人権」の意味合いを持つものと考えて良いような制限のないものが相当します。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。
坂東氏



 ああぁ。この一文をもって、坂東氏の思想・思考の底の浅さが伺われてしまいます。

 逆なのです。私たちはそういった愚昧な断種法、優生思想の元となるダーウィニズム的人類進化主義・進歩主義的歴史観の愚かしさから何を学んだのでしょう。それを一つも分からず、このように平然と「人類の忌まわしき愚行」と「共生のために痛みを感じつつ伴侶動物の生に干渉する」ことの違いを無視して語ることが出来る坂東氏の心性に大きな疑問を感じます。

 反対に、このように同一視する思考にこそ危機感を覚えます。

 坂東氏のエッセイを批判した人の中には、たしかにそういう意味で(ただ感情に動かされて)一方的な価値観のもと坂東氏を批判した未熟な人もいるかもしれません。しかし、動物に対する避妊を手放しで受け入れている人の方が少ないでしょう。ブログでの議論を見ている限り、多くの人が悩み、その上で手術を決断している様子がうかがえる。

 そういう点からも、つまり断種法などを引き合いに出した時点ですでに坂東氏のエッセイは「社会に一石を投じる」価値が全くなくなっています。

 坂東氏の個人的病理とは何であろうか。その問いが、私の問いでした。最初は「病理としての動物愛護をえぐり出す目的」があるように見えたのですが、それは間違いであると考え直しました。

 では、何であるのか?

 今は「供犠」であろうと考えています。つまり、生け贄。猫は、そして子猫は、坂東氏信ずるところの「けもの本来の性」と「ペットとして不本意に飼われる呪われた生」の狭間に位置するものなのです。

 親猫は「本来の性」をまっとうするべき存在。そして、その結果として生まれる子猫は「ゆがんだ世界に産み落とされた呪われた運命の子」。それであるが故に、子猫は産み落とされてすぐ、崖下に投げ落とされなくてはならないのです。

 それは「不妊手術」であってはいけないのです。

 この部分が核心であろうと思います:

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。
坂東氏


 彼女は「陰嚢と子宮」に、つまりセックスに、生殖に、異常な執着をもっているのです。それは、「彼女自身の執着」です。

 おわかりでしょうか。坂東氏は、彼女自身が持つ「セックス・生殖」への執着の身代わりとして親猫を見、その「性と生」をまっとうさせたいと願い、その結果生まれてくる子猫をその執着の捨て場としての崖下へ投げ落とさざるを得ないのです。

 異常である、と思えます。狂っている。

 しかし、そういう狂気はまた、私たち1人1人の中にも、潜むものでしょう。形を変え、姿を移ろわせつつ、私たちにまとわりつく闇でしょう。

 私は、その闇を否定しません。

 しかし、だから、子猫を殺して良いのか?

 自分の心に潜む闇を、猫を飼い、子を殺し続けることで埋めて良いのか?

 結局、坂東氏は自らの狂気をはらんだエゴのために子猫を殺し続けているのです。それが正しいこととは言えない。そしてまた、それが間違っていると言えないことも正しいことではない。

 だから、私は坂東氏の行為は間違いだと言い続けたいのです。

 追記。

 阿呆な記者の解説など気にせず坂東氏の今回の文章を読んでみてください。

 坂東氏は述べています:

 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。



 自ら恣意的に子猫を殺しておき、それをエッセイの形で公表したプロの物書きであるなら、「事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる」と書いていることを、恥じるべきでしょう。プロであるなら、言葉を尽くして語り、反論には言論で応えていくのが筋でしょう。それを放棄したのは、おそらく作家生命の終焉を告げるものとなります。

 もっとも、「言いたいことを言って批判されるのは言論弾圧だ!」と叫ぶ左巻き思考の持ち主であると宣言するなら別ですが。

 作家である彼女の口から「言論弾圧」なる重い言葉が出たことは、おそらく今後議論を呼ぶことでしょう。そして、それを(わかったようなことを中途半端に解説して)ほぼ無批判に載せた毎日新聞の報道姿勢も批判されるでしょう。

 追記2。

 まさか事実関係を調べたら「みんなウソでした。てへ。」なんてことにならないだろうなぁ。

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子猫殺し:告白の坂東眞砂子さんを告発の動き??タヒチ管轄政府「虐待にあたる」

 直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。20日から26日は、動物愛護週間。坂東さんが、真意を語りたいと毎日新聞に寄稿した。

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 ■解説

 ◇動物の生と死、多角的議論を

 坂東さんは「子猫殺し」を発表することで、愛猫に抱く葛藤(かっとう)を伝えるとともに、過剰なペット依存社会に一石を投じ、動物の生と死について再考を促そうとした。しかし現状では、多角的で本質に迫る議論には発展していない。

 「雌猫3匹が産む猫を、がけから放り投げている」。この強い表現は、猫への愛情と罪悪感が希薄な印象で、読む側の不快感につながった。言葉を扱うプロだからこそ、意図を正確に届ける工夫がもっとほしかった。

 また、猫への避妊手術は、坂東さんの挙げる野良猫対策とは異なる側面もある。野良猫の7割以上がウイルスを持っているといわれる猫エイズの予防だ。治療法は確立されていないが、体液の接触感染が主な原因で、不妊・去勢手術を施してけんかや交尾の機会を減らせば防ぎやすくなる。

 現代社会の猫や犬は、単なるペットではなく、人生の伴りょとして扱われる。坂東さんに賛同する人は少ないだろう。ただ、私たちが「動物にとっての本当の幸せ」を知るすべはない。動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。【鳴海崇】

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 ◆坂東眞砂子さん寄稿

 ◇子猫を殺す時、自分も殺している

 私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。

 さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。

 しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。

 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。

 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。

 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。

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 ■ことば

 ◇子猫殺し

 坂東さんが日経新聞8月18日夕刊でエッセー「子猫殺し」を掲載。飼っている雌猫に避妊手術をせず、子猫が生まれるとがけ下に投げていることを明らかにした。日経にはメールと電話で延べ1497件(今月19日現在)の意見が寄せられた。「残酷で不快」「動物愛護の精神に反する」「生命を軽視している」「避妊手術と、子猫を殺すことを同列に論じるのはおかしい」など、大多数が批判。少数だが「これからも生と死について書き続けて」との賛意もあった。

毎日新聞 2006年9月22日 東京夕刊

不可逆的避妊と猫殺し

 コメントで少し書いたのですが、不十分だと思い、エントリします。

 坂東氏の行為から一般的な話題として「不可逆的避妊と猫殺しとどう違うのか」という議論があるようなのですが、「子を作らない・増やさない」という点についていえば、私としては本質的に違いはない、と考えます。

 なぜなら、猫が本来自然のものであるとするなら、人間の干渉を全く行わなければよいのです。産もうがどうしようが、私たちの関わることではない。

 しかし、実際にペットとして猫を飼う以上、「必ず干渉しなくてはならない」のです。現実には子猫を産みますし、それが増えることで私たちの暮らしになにがしかの実害が出る可能性があるからです。

 その実害を発生させないように、具体的にいえば身近で猫が増えすぎないように、何らかの「制限」をかけざるを得ないのが現実でしょう。

 その現実をふまえたとき、繁殖制限のために「避妊」と「子猫殺し」とで本質的にどちらが良いと言えるかどうか。

 この点で、私は「現在の日本では避妊手術の方が良いという大まかな合意が出来ている」と繰り返し述べてきました。理由としてはその行為に関わらざるを得ない人たちの罪悪感に依るだろうと言うことも書きました。

 さて、ここで発想を変えて、子猫殺しよりも避妊よりも良い方法があるでしょうか。たとえば経口避妊薬とか、インプラント剤(皮下に発情抑制剤入りのシリコンを埋め込んで徐放させる薬だそうです)を使うとか、さらにはワクチンのように注射で発情を止める(卵巣機能を破壊する方法?)とか。

 おそらく、近い将来、もっと「猫に負担をかけない方法」が開発されれば、今の避妊(手術)がそれにその方法が今の避妊手術に取って代わるでしょう。しかし、それで全ての問題が片付くでしょうか。

 「猫が猫本来の生活をする」ことからすれば、全てが人間の干渉であり、猫本来の生を阻害する行為としては変わりがないのではないでしょうか。

 ここで言いたいのは、「子猫殺し」も「避妊手術」も、将来開発されるであろうあらゆる「繁殖制限処置」もすべて、ある意味で「猫の自然(交尾・繁殖・子孫維持)」に干渉すると言う意味で、「人間側の勝手・都合」なのです。

 こう考えれば、「不可逆的避妊と猫殺しとどう違うのか」と言う議論がそもそも「人間側の感傷」もしくは「「罪悪感」から生まれ出た一方的な議論にすぎないことが分かります。

 (今まで各地で行われてきたであろう)子猫殺しが悪で、避妊が善である。いや、逆である。と言う話は実は(繁殖制限をしなくてはならない人々のその時代、実情、技術に関わる)「程度の問題」であり、それ故二元論的な話はそもそも意味をなさないのです。

 私はその「程度」がどこまで社会的に許容されるのか、どこで線引きをするのか、と言う点に興味があります。

 そこで今の話題として出てくるのが、「子猫を殺すことのなかにある残虐性」でしょう。しかし、これもまた「生命倫理」などで括れる話ではありません。

 その行為の裡に潜む「心」に目を向けなければ、本質は見えてこないと思っています。

 たとえば、生まれた子猫を川に流す行為。これが「残虐であるかどうか」はその地域、時代、その行為を行う「人たち」の歴史的背景を考えなければなりません。

 一方で、現在意図的に子猫を捨てている人もいるわけです。

 この人と、仕方なく川に流す人の差は何なのだろうかというところに、目を向けたほうが良いと考えていますし、そこにこそ、何らかの答えというべきものがあると考えています。

 たとえば、こういう問いはどうでしょう。

 「坂東氏が、避妊手術という手段によらず全く新しい(今のところ架空の)安全な別の方法で猫の繁殖制限が出来るといわれたら、子猫殺しをやめるのか?」

 「もしやめるとするなら、そのとき、避妊手術とその(架空の)方法とで、本質的な違いが何であると考えるのか?」

 この問いに、答えられるでしょうか。

TB:子猫殺しと「きっこのブログ」

コメントを削除する恣意性

 不要と思われるコメントやトラックバックを削除するにあたり、記事に関係のないスパムは当然対象となりえます。あとは誹謗中傷のたぐい、個人情報の不適切な露出といったところでしょうか。

 私の記憶ではつい一年前くらいはスパムが大流行でした。自分のブログ(ここじゃないところ)にもたくさん送りつけられました。それが今ではトラックバック機能の強化などによってほとんど見られなくなりました。これは無関係な記事を機械的にばらまくことを防ぐ意味で良いことだと思えます。

 いっぽう、コメントに関してはスパムを除き冒頭に書いた条件あたりをストリクト(厳格)に適用するか、ルーズ(緩やか)にするかブログ管理者の恣意性に任されている部分が大きく、さらにそのやり方がブログに対する外部からの評価を左右する面があります。

 たとえば「あそこは気に入らないコメントだととすぐ削除する」という場合は多分に「卑怯者」とか「信用ならない」という評価が下るわけです。逆にどんなコメントも残し、丁寧に対応していると見られるところは高評価になります。(ここで、「見られる」という言い方に注意)

 この評価方法はある程度時間をかけて同意されてきたものであろうと思います。

 さて、炎上。ネットイナゴ。こういう場合のコメントに対応する態度はどんな感じかというと、おおかたは無視かブログ閉鎖かコメント受付停止になります。

 もちろん丁寧に対応するという選択肢も可能性としてはあり得るでしょうが、現実にはほぼ不可能。よって、上記三つぐらいが実際取り得る手段でした。

 しかし、中間的な手法もありました。おそらく長くブログを続けていてネットワーク知識もあるヘビーユーザーにしか出来ないことでしょうが、炎上した場合、イナゴの発言は力業で削除するというスタンス。

http://lsty.seesaa.net/article/22749345.html

 もっとも、炎上の元となったエントリは手を加えず、今後その手のものに対して取る手段としてですが。

 これは炎上原因がブログ側にもあるとしても謝罪を要求されるようなことではないと言う点で炎上原因の是非はともかく、延焼によりブログ全体が荒らされることへの対応として現状でベターな方法かとも思えます。

 この手法を好意的に取れば、「ネットイナゴ」のレッテルがより実態に即したものとして認識されてきたため、「イナゴ発言」かそうでないかという見分けの合意が出来つつあるということから、ネットイナゴ対策の最適化につながる出来事でしょう。

 しかし、逆に一抹の不安を感じるところもあります。

 今後、どこまでがセーフでどこまでがアウトかという線引きについて、他のブログに対して好ましくない影響を与えるだろうという点です。

 冒頭で記したように「コメント削除」はなるべく恣意性のない形が好ましいという合意になっていたであろう考え方がより恣意性の方向へ振れる、という可能性です。言い換えれば、いったん「イナゴ」のレッテルが貼られれば即削除という判断が生まれ、その閾値が低下するのではないかということです。

 もしそうなったとしてもそれは元をただせばネットイナゴ行為がもたらしたものですから、自業自得と言えばそれまでですが、それで「ネットイナゴ」に実害が出るわけではない。恣意的削除の害を被るのはブログ運営側です。

 また、本題とは直接関わりませんが、「実名匿名論争」にもさらに影響を与えることでしょう。

 「匿名」と「ネットイナゴ」と「ネット右翼」は誘導の仕方によって容易に融合したレッテルとなりえます。それが気がかり。

紀子さま 男の子出産

 慶事です。お子様の健やかな御成長を心よりお祈り申し上げます。

紀子さま、男の子出産 41年ぶりの男子皇族誕生
2006年09月06日10時17分

 秋篠宮妃紀子さま(39)は6日午前8時27分、東京都港区の愛育病院(中林正雄院長)で男の子を出産した。体重は2558グラム。母子ともに健康。男子皇族の誕生は秋篠宮さま以来約41年ぶり、天皇陛下の孫の世代では初めての男子となる。皇位継承順位は、皇太子さま、秋篠宮さまに次いで第3位。胎盤の一部が子宮口をふさぐ「部分前置胎盤」のため、予定日より1カ月近く早い帝王切開による出産だった。皇族の帝王切開による出産は初めてで、現皇室での最高齢出産となった。(以下略)

朝日新聞



 皇室典範改正はひとまず急ぎではなくなったのでしょうが、男子のお子様がお一人だけという状況はまだまだ盤石とは言い難いです。今後を考えるとまだ慎重に議論されるべきでしょう。

 海外メディアも注目している中、国内メディアやネットの動向を一層注視する必要がありそうです。

坂東氏の意図的虐待。そしてメタファー。

 子猫殺しについていくつかエントリしてきましたが、なるべく一般的な考え方のみに焦点を当てていました。ここでは坂東氏のエッセイとそれに対する世間の反応を考えたいと思います。

 タヒチはフランス領で、フランス刑法が適用されるらしいのですが、その中の動物虐待に関する項目によると、罰金刑や禁固刑が用意されているようです。

「子猫殺し」にはフランス刑法「art.R655-1」が適用されるという。これには、「むやみに、飼っているあるいは管理している動物を意志を持って殺害すると、762.25?1,524.5ユーロの罰金(再犯の場合は3,049ユーロまで)が課される」とある。「むやみに(必要なしに)」が該当すれば、あきらかに「違法」だ。また崖から突き落とす行為が「残虐行為」に該当すれば、「禁固2年と30,000ユーロの罰金」が該当し、さらに罪は重くなる。

http://www.j-cast.com/



 だからといって即「法律違反。ターイホ!」となるかと言えば、そんなことはない。予想通りというか、感情的な反発が著しい世の中の動物好きの人たちからすれば「許せない」となるのは当然でしょうが、実際にそれが適用されるケースはほとんど無いようです。

 これが、「犬が人を咬んだ」とかになると「傷害」というケースで飼育者の責任になります。これで挙げられたひとは何人もいる。また、最近のケースですと動物繁殖業者が300匹の犬を不衛生な放置状態にしていた軽井沢の事例では、動物愛護に関係する法律ではなく「薬事法違反」でまず警察が動きました。動物保護はその後の付け足し。

 動物虐待ということになると、世論は「かわいそうだからやめさせて」という方向に行きますが、実際に法的処分を行うことはむずかしいようです。

 ジョークに「犬が人を咬んでもニュースにならないが、人が犬を咬んだらニュースになる」というものがあります。しかし法律的には逆ですね。人を咬んだ犬の飼い主は処罰されるが犬を咬んだ人は「おかわいそうなひと」として気持ち悪がられるだけ。

 なぜだろうと考えるに、おそらく動物「虐待」というのは多分に「心の問題」をはらんでいるからでしょう。「虐待と思われる」あらゆるケースに於いて厳格に「刑事罰」を適用しようとしたら、国家が国民の心に立ち入ることになってしまう。これはまずい。「犬公方・猫公方」の眼を伺いつつ暮らすおぞましい世界になる。

 それに似たようなのが「人権擁護法案」だと思うのですが、それはさておき。

 ですから、社会を揺るがすような重大な事件とかでない限り、「動物虐待者」が犯罪者として挙げられることは無いのでしょう。もしくはほかの点から動く(先ほどの薬事法違反など)とかしかできない。

 坂東氏の場合も(タヒチだろうがどこだろうが)実際に刑事罰を受けるかどうかはとっても疑問。気持ちとしては許せなくてもね。

 おそらくいくら動物愛護団体が騒ごうとも、猫好きの人が坂東氏を非難しようとも、それが「関わり合いたくない」とか「かわいそうだからやめさせろ」みたいなものである限り、屁の突っ張りにもならない。もちろん、いろんなブログで行われている議論もはっきり言って無意味に近いのです(ここもそうか?)。

 結局、虐待を行っているであろうひとを非難してもだめなのです。行為が潜行し陰湿化する可能性がきわめて高い。ましてや有名人という立場でエッセイを大メディアに載せている人物が確信的に告白した行為など、端から泣こうが喚こうが殺せと叫ぼうが、その非難には何の意味もない。

まぁ、世のサイコパ(ry いや、一部好事家がその著書を喜んで買うくらいで。

 もし「動物虐待に当たる」として刑事罰を科すなら、淡々と話を進めればいい。しかし、もしそうなったとしてもおそらく繰り返すでしょう。坂東氏の身辺から動物を取り上げない限り。

 現実には、それは無理かもしれない。アメリカですと、たとえばコロラド州法で虐待を防止する(強力な法律に裏付けられた)ピースオフィサーがいます。動物虐待に当たると思われる場合、とりあえず飼い主から動物を引き離して保護できる強力な権限があるということです。また、虐待を行う側に対して心のケアをする制度も整っています。(参考

 そういう制度もなく、あったとしても形ばかりで実効性がなければ、それは絵に描いた餅です。おそらく日本ではそうでしょう。しかし、動物虐待に対する心理的抵抗はきわめて強い。いってみれば、「虐待」という言葉が持つ陰湿な響きのみが行き渡っているなかで、坂東氏はこの社会に潜むメタファー(隠喩)としての虐待を露出させたかったのかもしれません。

 そして世の中は坂東氏の意図した如くかどうか分からないにしても、イメージに引きずられるように「虐待はいかん」の大合唱になりました。

  さてさて、虐待をやめさせるのにはどうすればいいかというと、結局は「対話」しかないと思うのです。それもプロフェッショナルな対話。この点は拙ブログのアウトカム?プロフェッショナルの態度?そこに対話はあるのかい?をお読みいただければ。

 プロフェッショナルな対話というのは、非常にむずかしいでしょう。経験と知識と相手に受け入れられる人格と忍耐と、それから冷静な熱意が必要でしょう。

 その点において、民間の動物愛護団体や個人の動物愛好家がそれに適するとは、とうてい思えません。もともと動物よりに考える人たちが多いでしょうから、虐待をする側の心理に土足で踏み込む可能性があります。

 私は個人的に、オタクな愛犬家・愛猫家が嫌いです。

 でもそういうのに限って声を大きく上げてさわぎたてる。

 この坂東騒動で大きく声を上げた動物愛好家の方たちの一部は、もっと冷静であるべきだったと思いますね。抗議はすべきでしょうが、熱気のあるぶん逆効果だったと思える。

 坂東氏のコラムは、繰り返しになりますが、今の世の中にある「虐待的出来事への批判=生命の豊饒生を失いつつ偽善的に命を尊ぶ感覚」への嫌悪感から生起した「メタファーとしての虐待を示す試み」とでも呼ぶべき意図が隠されていたのではないかとも思います。結果として虐待「行為」だけが騒がれ、それが動物愛護家への意図せぬ試金石になった気が。

 しかし。私は仮に意図がそれであったにせよ坂東氏の考え方には偽善と独善しか感じられなかったですし、あのコラム自体はスーザン・ソンタグに及ぶべくもない駄作であると感じているのですがね。

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