2006-11

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国歌は価値中立たりえるか?

このエントリは青龍さまへのお返事です。

 国旗・国歌を価値中立なものにするとはどの様な施策を指すのでしょうか。君が代が天皇の世が続くことを歌い上げるものであり価値中立的なものではない以上、国歌を別の歌に変更するのでもなければ価値中立なものにすることはできません。君が代を国歌としたままで価値中立なものにするのはそもそも不可能だと私は思います。この施策が、君が代を価値中立的なものと見なすということであればまさに「保守」にありがちな自らのイデオロギー性の無自覚といえるのではないでしょうか。
 青龍の雑文Blog はてな別館 「伝統」のイデオロギー性 より



 この点を考えるにあたり、下記のような資料を用意しました。十分ご存知のこととは思いますが、ほかの読者の方の手前、掲示しますのでお許しください。

フランス国歌 La Marseillaise

  いざ進め 祖国の子らよ
栄光の日は やって来た
我らに対し 暴君の
血塗られた軍旗は 掲げられた
血塗られた軍旗は 掲げられた
聞こえるか 戦場で
蠢いているのを 獰猛な兵士どもが
奴らはやってくる 汝らの元に
喉を掻ききるため 汝らの女子供の

武器を取れ 市民らよ
組織せよ 汝らの軍隊を
いざ進もう! いざ進もう!
汚れた血が
我らの田畑を満たすまで

  奴隷と反逆者の集団、謀議を図る王等
  我等がために用意されし鉄の鎖
  同士たるフランス人よ!
  何たる侮辱か! 何をかなさんや!
  敵は我等を古き隷属に貶めんと企めり!

  何と、 我が国を法で縛ろうというのか!
  何と、 金で雇われた傭兵共の集団で
  我等の誇り高き戦士を打ち倒そうというのか!
  我等を屈服せしめるくびきと鎖
  我々の運命を支配せんとす下劣な暴君共よ!

wikipedia
および
世界の国家 フランス共和国
より引用し併記



 これはフランス革命時にある工兵が作ったものとされています。内容は読んでのとおり、革命勢力がアンシャン・レジームを打倒するためのもの。

 フランス革命自体は非常に血なまぐさく、事実、王の処刑、貴族の処刑、地主層の処刑、革命政府に反対する地方都市での大虐殺などなどの内乱(処刑の嵐)に加え、キリスト教教会の焼き討ち、近隣国への侵攻と併合など宗教的・対外的にも暴虐の限りを尽くすものでした。

 フランス革命の詳細な歴史の検討は別の機会に譲るとして、この「革命歌」は、革命後のフランス共和国の歴史の中で一時廃止されましたが復活し、今のフランス共和国(現在は第五共和制)で正式に国歌として採用されています。現在、歌詞が子供にとって残虐すぎるということから国歌変更の案も出ているようですが、実現には至っていません。

 現在のフランス共和国は直接選挙で選ばれる大統領の下、その指名で首相が選ばれ、半大統領制と呼ばれる責任体制が存在します。議会は元老院とフランス国民会議の二院制。政党は保守系、中道、左派がそれぞれ存在しています。

 現在の政治勢力はシラク大統領支持の保守系、国民運動連合が国民会議の過半数を占めています。


* 国民運動連合 - 保守・中道右派
* フランス民主連合 - 中道
* 社会党 - 中道左派・社会民主主義
* フランス共産党
* 国民戦線 極右・移民排斥(議席なし)
wikipedia より引用



 さて、この国歌は、フランス革命賛歌です。この国歌を法律で制定し続けているフランス共和国は、今も革命の嵐が吹き荒れているでしょうか。

 いいえ。見てきたとおり、民主的な政治が行われ、現在は保守系政党が過半数という状況です。

 しかし、その極端な革命イデオロギーメッセージを含むにもかかわらず国歌として行事で演奏され続けている現実があり、それはフランスの象徴として自国・他国に機能しています。

 この一例をとってみても、国歌は「国民を統べる象徴」として機能する一方、その内容のイデオロギー性を問われているわけではありません。

 一般的に、その統べる主体は憲法であり、その憲法の下、法律が制定され、国民は等しく法律の元に保護され、また、法律を遵守する義務があります。その点で国民は法の下に平等であり、天皇とて例外ではありません。「国民」の誰も、例外ではありません。

 今現在の日本が天皇を主体とする国家を形作っているのなら、君が代は天皇のための歌ですが、現実はそうではありません。ですから、君が代を国歌と認めないという「考え」がそのまま国家に対する反逆になることはありえないのではないでしょうか。ですから青龍さんのお考えを誰も罰することはないし、考えを異にする自分とも共存可能なのではないでしょうか。

 問題は(過去にたくさん議論されているように)君が代を国家の象徴として儀礼的に歌うのが「ふさわしい」とされる公立学校でその斉唱に反対する行為です(これはあくまでも象徴としての国歌を歌うべき場ということです)。このイデオロギー的行為は、必要とされる儀礼の中で、あえて反対することで「わざわざ価値中立性を歪めている」行為であると思えるのです。つまり、もともと「国家として国民として」の象徴としての意味しかなかったものにイデオロギーを持ち込んだのは、どちらなのか、という批判です。(日本共産党でさえ、国旗・国歌を消極的にではありますが認めていることや国旗国歌を規定する法律が存在するのはとりあえずおいておきますが。)

 象徴としての天皇は、封建の権力を現在は持ちえていません。しかし、左翼系といわれるマスコミでさえ、たとえば靖国問題においては天皇の発言というものを政治的に利用しました。天皇はそのような権限を行使出来得る立場ではありえないにもかかわらず、です。

 これらは、すべて「イデオロギーを持つ側」が「象徴を利用する」行為です。そしてその利用によって損なわれるのは「法による統治」という理念そのものなのではないでしょうか。

 一部分かつ未熟ですが、お答えといたします。続きはまた。
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見てみぬ振りしてわが身を直せ?

 いじめの温床となる陰湿さ、隠蔽性をどう取り除くかという問題だと思うが。

 安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は29日午前、首相官邸で、首相も出席した総会を開き、「いじめ問題への緊急提言」をまとめた。

 提言は8項目で、いじめをした児童・生徒に出席停止など厳しい措置を取ることを念頭に、問題行動に対する指導・懲戒基準を明確にして毅然(きぜん)と対応するよう求めたほか、いじめにかかわったり、放置・助長したりした教員を懲戒処分の対象とすることなどが柱だ。いじめを傍観した児童・生徒の指導強化も盛り込むなど、踏み込んだ内容となった。

 中略

 具体的な対策としては「いじめは反社会的行為として絶対許されないことであり、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する」と明記した。

いじめ「見ぬ振りも加害者」…教育再生会議が緊急提言より一部引用
YOMIURI ONLINE



 いじめ行為は当事者が集団の中に埋もれて見えない場合に持続しエスカレートするわけで、それを表に出す手法として集団そのものを監視装置として用いたくなる。そこで「見て見ぬ振りはいかんぜよ」となるのですね。ふむ。

 しかし、集団がそういう性向を持つように誘導するのは難しかろうな。「ちくり」を推奨するのが手っ取り早いが、これは構成員相互に疑心暗鬼の念を抱かせかねないですよ。

 倫理的規範により「縛る」ことでそれを達成しようとしたらその集団に対してかなり高度な教育をしなくてはならないでしょう。しかしそれができないからこそ今があるわけですから、簡単に実行できるわけもない。集団を牽引する指導者(教師ね)の再教育やら指導力の高度化やらといった作業が不可欠になる。

 しかも、そこに「みぎやひだりのだんなさまがた」が入り込んでくるから余計ややこしい。

 結局「見てみぬ振りをさせない態度」を集団構成員に実行させようとするのは「絵に描いた餅」を地で行くようなものであると同時に、「教育現場はこれだけ無能なんですよ」と安倍首相自ら公言していることになるな。これは。

 欧米のリベラル教育がやらかした失敗を参考にこういう提言を行っているんだろうけど、小手先だけ真似しんぼの提言こそ「理念なき改革」の見本ではなかろうか。

 もらいものの理念を使って中身が伴わないような経営してたら、一般企業ならとっくにつぶれてるよ。

 公立学校ってそうならないから良いよねぇ。

 立て直そうと思ったら基本理念をぶち上げ、それに沿うような規則作成と行動要綱の実施徹底、その理念要綱に添う形での要員配備をしなくてはならないのはわかっているはず。なのだが。

偏見と理性と感性

 誰もが思っていたことを口にできる良い時代が来ているのだなぁと感じます。


 安倍晋三首相は22日午前の参院教育基本法特別委員会で、学校の卒業式などでの国旗掲揚と国歌斉唱について、「自国の国旗国歌への敬意、尊重の気持ちを涵養(かんよう)することは極めて大事」と述べ、「政治的闘争の一環として国旗の掲揚や国歌の斉唱が行われないことは問題」との考えを強調した。

時事ドットコム
2006/11/22-12:17 安倍首相「国旗国歌への敬意重要」=教基法改正案、参院で実質審議入り より引用



 敬意、尊重の気持ちというのは、理性ではないですね。どちらかというと良い意味での「偏見」(偏見って悪いもんじゃねぇの?と思った人、残念。良い偏見もあるんです)。こういった気持ちをイクナイとする人たちは、理性が勝っています。ですから、国家・国旗に対する敬意とか尊重とかいうと「お前、それは間違っているよ」と突っ込むわけです。理性的じゃないとしてね。

 でも、人間、理性だけで生きているわけじゃない。感情があり、偏見を持ち、不可思議な領域を信じたがる不合理な生き物なわけです。国、国家、故郷といったものに対し、不合理だけれども自分の生まれ育った場所として愛着を持つわけです。その象徴として存在する「国旗」とか「国家」って、どこの国に行ってもそうでしょうけど、愛着の対象なんですよ。それが真っ当な意味での「愛国心」ではないでしょうか。

 その対象・象徴を否定するってぇことは、実は国家を否定するというより人間のそういった感情や不合理さを否定するんです。つまり「理性が一番。理性がすべてを解決していく」という立場ですね。

 これ、チェスタトンのいう「全世界を頭の中に押し込める」行為です。逆の人は「世界の中に身をおく」のです。漂うというか。だから謙虚になれる。自分の周りにある無限の宇宙を認めるのですから、人智の及ばないものに対して「こりゃぁカナワンナァ」という感覚、畏怖の念を持てるんですね。

 だから、この国で国旗・国家を否定して卒業式で騒ぐような人たちって、傲慢ですよ。口では平和とか反戦を唱えてますが(そりゃもっともだってところなんですけど、どうしてもその背景に理詰めのイデオロギーによるプロパガンダを感じるんですよ)、心底傲慢です。だって、自分の考えつまり理性から導き出された論理に反するとなると子供がどう感じようがお構いなしに抗議しますから。冒頭の引用文ですと「政治的闘争の一環」というやつですね。

 子供を政争の具に使うな。と。

 このあたり、チェスタトンの著書を読むとすっきりします。なぜ「彼ら」はああも不寛容なのだろう? とか、なんでああも傲慢ですの? とか疑問に思っていたことの多くが解決します。
 
 ただね、「国旗国家反対なり!」って人にも何か理があるということを書かなくてはならないですね。

 そういう人たちは、確かに「頭で多くのことを考えています」から、その点は立派です。反駁しようのない理論を持っています。その点では「自分を信じている人」ですよね。

 でも、実はそれが危ないんです。

 なぜ危ないかは「正統とは何か」第二章「気ちがい病院からの出発」を読むとよくわかります。

 著者いわく、自分を信じ、自分の理性を信じて疑わない挙句、自分はキリストであるとか、世界中が自分に対して陰謀をめぐらせていると確信している人がそういう病院の塀の中にいるんですって。

 つづきはまた。

HN変更し気分も新たに。

 straymindからGraveyardRunner(G.R.)と名前を変えました。出世魚とか元服みたいなもんです(ポジティブすぎ?)。よって今後はGraveyardRunnerもしくはG.R.で出没します。

 それはともかく、チョンス兄から紹介されたチェスタトンの「正統とはなにか」を2ヶ月も前に注文したんですが、待たされたあげく「すみません、入手できんのでキャンセルしちくりませ」というメールがアマゾンからやってきやがったので、古書をあたってネットで注文。もうすぐ届くなり。

 しかしまぁ。待ってる間もバークとかハミルトン(キャプテンフューチャーじゃないほう)とかを探してみたんですが、ほとんど無いっすね。絶版もしくは未訳もしくは悪意ある翻訳もの(>聞いてるか?岩波)。

 日本では中川センセが乗りまくりの悪口でサヨクを罵倒しつつバークほか保守思想の紹介をされていますが、あの語り口を読み続けるとさすがに疲れるのです。ここはやはり切り込み隊長別宅のバーク主義解説あたりをふんふんと読んでみることからはじめたほうがいいような、そんな保守貧困の今日この頃なりね。

追記

 そうこうしているうちに注文品が届きました。

 G.K.チェスタトン著作集1 「正統とは何か」
 福田恒存 安西徹雄 訳 春秋社 刊 昭和五十四年二版

 定価1500円なりが古書で3000円。高くなってんの。それだけ希少ってことかもしれないね。ヤフオクに出したらもっといけるか?(冗談)

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