2006-12

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訴訟で医療の質が上がる、だと?

 こういうのを能天気というのか。いや、悪しきマスメディアの洗脳事例というのか。

 立命館大学教授佐和隆光氏――医師免許に更新制要らぬ(インタビュー領空侵犯)
2006/ 12/ 25日本経済新聞 朝刊p.7


ネットにはソースなし

 ようするに、医療においては情報の不均衡が存在し、患者側は医師の優劣など知りようがない。その状況下でどうすればいいのかという話。インタビューを受けたのは佐和隆光氏。

 中国では病院の診療科に属する医師の名前リストがあって、診察料などはその医師の評判・実力によって違っている。つまりは能力のお品書きがあるというのだ。

 で、日本ではそういうわけには行かない(自由診療ならともかく、現行の保険制度では均一料金になる)から、医師の優劣を決めようがないと。

 であるから、今後弁護士が増えて医療訴訟が増えていけば、医師側も自分の腕を磨くようになり、ミスをしにくくなり、技能の劣る失敗の多い医師は淘汰されていく、と。こういうことを言っている。

 おじさんだいじょうぶか? と思える内容であるなぁ。

 これでは「訴訟リスクの高い患者」を喜ばせるだけではないか。その結果として起こるのは防衛医療(訴訟回避のための過剰かつ無難にやり過ごす医療)であり、隠蔽の常態化(カルテ改竄、証拠隠滅)であり、疑心暗鬼による意思疎通の不具合であり、弁護士の訴訟営業であり、訴訟に備えての保険の診療費上乗せであり、ああ、これは今までのアメリカ型医療ではないか。まぁ、そのアメリカでもいまでは「とにかく謝っちまえ」型の対処が有効といわれて来ているが。

 そうでなくとも今の日本では情報があふれかえることで混乱がおき、医療への「気分的な」不信感をあおるマスメディアが「赤ひげ先生」を血眼で捜し、産科・小児科をはじめとした最前線の医療従事者が「こんなきつくて訴訟リスクの高い仕事やってられんわい」と辞めていき、妊婦は生み場所を捜し求め、子供は熱を出して親は救急病院を探し回り、そんな状況をこれ以上悪くしてどうする?

 ちなみに、医療訴訟がどれだけ大変か、知っているだろうか。

医療事故ではないかと思ったら

↑でもみて目を覚ましたらどうか。いくら弁護士が増えて訴訟を起こしやすくなったとしても、訴訟の手間と手間賃は変わらない

 「ああ、これで訴訟を起こしやすくなるわ♪」と喜んだ奥さん、残念。 <言い過ぎました。反省。

 ここでまたひとつ、弁護士のお品書きが必要となってくるのはそんなに想像力がなくても判る話。

医療は不確実なもので、絶対安全はない。そんななかでむやみに医療訴訟が増えれば、質を上げるより前に医師が萎縮し、なり手が減ってしまう恐れがある。国民のだれもが必要なときに十分な医療を受けられる体制を維持しながら、医療の質を上げていくのは簡単ではない。様々な意見を踏まえ徹底した議論が必要だ。(編集委員 山口聡)


 インタビュアーの言葉が救いとなった。確かにそのとおり。
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鍵コメは嫌いだ。

 必要があるという点は認めます。しかし、たとえば一対一でコメント合戦していたりTB打ち合っていたりするとして、相手方にいくつか鍵コメが入り、その結果か何か知らないが突然相手の態度が変わる、ということは過去に何度も経験しました。

 国会中継で首相の答弁時に裏から役人が出てきてなにやらごにょごにょ。首相はにやりと笑ってうなずくや答弁席に立ち「さて、それについてですが…」とやり始めるような感じですかね。

 いわくこれを「入れ知恵」という。

 私は最近、あとにも先にも一回だけという考えであるところに鍵コメを入れましたが、今は結構後悔しています。こんなことなら何もしなければ良かったかなぁと思い始めています。あんな形でかかわるんじゃなかったというか。

 ネットでの言説はそこに書かれているテキストのみで考えるというスタンスを破った後悔を引きずりつつ、新しい年を迎える日。

 年を越しての追記。

 はてなブックマークで言及されているとおり、嫌いといっておきながら鍵コメにレスするのはやはりイタダケナイ。(できれば公開コメでお願いしたいよぉ、話を膨らませられないよぉ。という気持ちが強かったのでレスしたんですが)

 ということで、えっけんさんのところの議論を読んだりしたうえで、やはりいっそ無いほうが良いと判断し、今のテンプレから秘密コメント部分の記述を削除。今後も模様替えのつど秘密コメント機能を削除するつもり。

 さらに追記。

 コメント投稿の際の確認画面についてという管理側の発表を見るとスパム対策でコメント確認画面が出る仕様になったんですが、その時点で秘密コメントの選択が可能なんですね。つまりはテンプレを改造してもあんまり意味がないケースもあると。ま、いいや。今後秘密コメントには無反応ということで。

にせ科学への誘惑

 これは前から興味がある。

 うしとみしよぞ 視点・論点「まん延するニセ科学」

 が、今はスルー。

 いずれ書きたいと思っている。なぜならニセ科学はわたした(ry

 スルー。

「テオドール転載」 こちらがわの後日譚

 前回のエントリ 「テオドール転載」について思う を書いてみて思ったこと。

立ち位置

 まず、なぜあのエントリを批判したかという点。事情があり個人の想いで「テオドール」に対して注意を呼びかけるという行動自体は、私のなかで特に問題ではありませんでした。仮にあのエントリが普通のブログで普通に書かれていたことなら、頭の中にいくつかの疑問点が浮かび上がったにせよ、それをもとにエントリを立てる行動はしなかったと思います(たぶん、コメントでいくつかご指摘させていただくにとどめたでしょう)。

 ではなぜ批判エントリを立てたかというと、それが「転載を推奨していた」から。この一点で、行動に出ました。

 しかし、それはかの人物(<OYAJI)が関わっていたからではありません。

批判の私的基準

 転載を推奨した時点で、そのエントリは単なる「個人ブログにおける個人の言説」ではなくなっていると考えたからです。もっと公の性質を帯びるものとなると考えたからです。

 具体的には、「情報ソースが古い」、「根拠が乏しい」、「主張が社会的影響を帯びる」という点で批判するべきものがあった。これが、個人のブログエントリと「おおやけの言説」どちらに近いかという点で、私は「おおやけ」になる、と判断し、その点を閾値として批判という行動に出たということです。

 このような「転載推奨は個が公となる行為であるから、遠慮なく批判する」というのは、私が勝手に作り上げた基準に過ぎません。御批判はいくらでもお受けします。

 しかし、上記のような考え方をしないと、「テオドール転載推奨」への疑義発声が難しいというのもまた事実です。

 個人のご事情があり、その苦しい状況のなかで想いをつづられていることに土足で踏み込むことを抑えようとされる人の気持ちは良くわかります。そして、それにかんがみて批判を控えようという考えも理解できます。

 しかし、その「個人の想い」が「転載を推奨」し、無批判なまま次々と複製されていく過程は、見過ごすことができません。

 なぜなら、その「個人の想い」とそれを背景にして理論立てたエントリの中に何らかの間違いがあれば、その間違いが「転載推奨」により、強力に増幅されると思えるからです。そしてそれは転載が続く限り修正されることなく増幅され続けます。

 これはもはや「個人の言説」とは遠く離れた大きな影響力を持ちうる出来事です。

転載推奨のメッセージ性

 「転載をお願いする」行為は、「必ず」メッセージ性を持ちます。その意図が良い・悪いは関係ありません。純粋に、「メッセージ」として発信されます。

 そのメッセージは、完全に正しいことはありえないでしょう。また、立場が違うだけで、あるメッセージがある人にとっては暴力や凶器となりうるのは、予想できます。

 仮に、いったん転載が始まれば、そのメッセージに含まれる暴力性や過ちは修正しにくくなります。

 この点は、マスメディアの報道被害にも似ています。

 転載推奨は、その「マスメディアの暴力性」に通じる危険が潜んでいると考えます。しかも、その「あやまち」は、マスメディアが慎重に(と思えないところもありますがともかく慎重に)情報を発信する場合と違い、個人が個人として考えて行う分、過誤や偏向が含まれやすくなります。

 つまり、「転載推奨行為」はその発生源から拡散先まで、考えが修正されず、個人の責任範囲をはるかに超えた「過誤」が増幅される必然を含んでいると思えるのです。

 そしてまた、それは「個人」から発せられるがゆえ、「個人」の責任を問われた場合、全責任を負うことが不可能な状況になりえます。

転載推奨はとても厳しい批判にさらされる

 このように考えると、ネットの中で転載推奨行為が連鎖していく可能性により、その言説(発端となった言説)は、きわめて厳しい批判にさらされる可能性が出てきます。

 転載機能を持つブログサービスでは、気に入った記事を転載することが常態となっているようです。そして、あるメッセージを発信したい人が簡単に転載を呼びかけることも可能です。
 一方、ネットに慣れていない人ほど、メッセージを十分練った形で作ることが上手ではなく、簡単に批判にさらされるケースが目立つと考えています。

 この、メッセージの欲望・希望と言説組み立ての未熟さが融合したとき、影響力のある「転載推奨行為」が生まれます。

 そして、メッセージは事前に批判を受けることなく、いわば「未熟児」の状態で拡散して、やがて暴力へといたる可能性が出てきます。

 その影響が大きければ大きいだけ、帰ってくる批判も大きいと覚悟しなくてはなりませんが、ことのはじめにそのような危機感覚が薄いケースが多いようです。

転載推奨行為はやめたほうがいい。

 こうしてみてくると、転載推奨行為は絶対にやめたほうがいい行為です。簡単に行えて賛同者もどんどん現れてなんだかうれしくなる機能かもしれませんが、一旦ことが起こった場合に(いや、起こらなくとも転載推奨行為をするというだけで)厳しい批判にさらされる可能性が高いものです。

 転載推奨行為はコストが低いようで、実はものすごく高くつく行為ではないかと思えます。

 中にはそのサービスシステムを恣意的に自由に扱い、変幻自在の人物もいます。これはまぁ、そのシステムに巣食うだけの人物なので、ここでは慮外とします。

 以上が、今の時点で私の考えるところです。

TBさき ブログより大切なもの-II (当方のエントリ発端となったゆえ)

「テオドール転載」について思う

 過去にテオフィリンという薬物がいくつかの副作用を引き起こし、それに関連するということで新たな「転載」が始まっていました。

 私は転載行為自体に批判的なのですが、同時に、ひとつのエントリとしての「テオフィリン(テオドール)とソース記事転用および転載推奨に関する記事内容」にいくつかの疑問点があるため、エントリを立てました。

 これを知ったのは:

「善意の転載」と「チェーン日記」に絞るよ ekken♂
のコメント欄から。

 ぜんそく薬「テオフィリン」、乳幼児の使用制限へ
 Yomiuri online
からがソースだと思います。

 これをもとにして「テオドール」の副作用を「知らせる」ための転載が広がっている模様。

 ソース記事は2005年11月18日で一年以上前のもの。

 これは今の時点で医療関係者が何も改善していなければ確かに問題であろうと思うのですが、記事でもすでに書かれているとおり、問題点があったとして関係団体が調査し使用ガイドラインを作り上げています。

 調べたところすでに公式なガイドラインが通達されています。

医薬品・医療機器等安全性情報
Pharmaceuticals and Medical Devices
Safety Information No.221

平成18年(2006年)1月 厚生労働省医薬食品局

4.まとめ
 製造販売業者からテオフィリン等の使用後に発現したとして報告された小児におけるけいれんの副作用事例を検討すると,ガイドラインの不遵守,発熱時の投与などが多く見られている。小児気管支喘息へのテオフィリン等の使用については,ガイドライン等を参考に,患者の状態等をよく観察し,特に乳幼児の場合には投与を慎重に検討するとともに,投与に際しては臨床症状等の観察や血中濃度のモニタリングを行うなど慎重な投与をお願いする。



 こういう副作用情報やガイドライン告知は医療機関に対して通常は速やかに行われるもので、一年以上経過した段階ではほとんどの医療従事者が知っている・知っていなければならない情報であると思えます。

 さて、冒頭の転載文なのですが、どうやら作成者が記事もとの読売新聞社と交渉し条件付ながら掲載を認められたようなのですが、疑問点がいくつか。

 ひとつは、確かに副作用かもしれないと思われる出来事にあわれた転載もと記事作成者の方には同情申し上げますが、(<この記述は削除。理由は■記事転載にひそむもうひとつの危険性の指摘を見つけたため。たしかに誤解するよなぁ)今の時点でなぜ「転載」によりその情報を広める必要があったのか。前述のように厚生労働省から通知が医療関係者に出ている状況を考えると、情報自体はすでに陳腐化しているため、医療機関と患者との間に無用な不安を生み出すだけではないのか。

 この点について記述しているエントリとしては、滝川クリスタルさんのエントリ「「善意の転載」・新たなる転載を起こす天災・災禍」が充実していると思いますので参考までに表記。

 もうひとつは、読売側の「記事使用条件」が具体的にどのようなもので、どこまで制限され、どこまでがして良い行動なのか明示されていないため、「転載」についての恣意的判断の余地が大きいと思われること。

 上記の段落に追記。
 【ご報告】読売さんから返事が来ました!
 ここのコメント欄によると読売記事本体の丸ごと転載は不可、引用も不可、同記事のURLを表記し、読者をそこに誘導するケースなら可。というものでした。個人がブログにエントリするレベルでなら、という条件付で考えた場合は妥当といえば妥当なんですが、果たしてこれを「無限転載」前提での許可と見ていいのかも疑問。

 また、読売が自社記事へのURL誘導をもって「お役に立てるならば」というのは、転載推奨記事に対して好意的な表現ととらえるべきかどうか。大新聞がそういう形で個人にコミットするかなぁという点も大いに疑問です。

 さらに追記。

 一日経って同エントリを見たら、「必要な方は転載してください」という表記が「騒動に巻き込まれそうなのでいったん転載不可にします」という表現に変わっていました。さてさて、そんな感じで「本当に世に知らしめるべきと考えている情報を転載させたいのか?」という疑問が湧き上がりました。同一エントリの骨子を変えてしまうのは言説としてもどうかと思う。

 ついでを言えば、「テオドール」は商品名で三菱ウェルファーマが製造していますが、ほかにもテオフィリンを用いた医療用医薬品が10以上、一般のドラッグストアで買える一般用医薬品が4種類出ています。これらはすべて新しいガイドラインに沿って注意書きが作られて用いられていると思われます。こういった商品への影響も大きいのではないかと思えます。

 このようなことへの影響という点で、明確な実証を経ないまま転載が促された感があります。

 ちなみにソースとなった読売新聞の記事の日付は2005年11月18日、厚生労働省のガイドラインに沿った適正な使用の呼びかけは平成18年(2006年)1月ですから、あまり遅いとはいえない時間差で対策がとられています

 これらがとても疑問なのです。

 なぜ、いま、この記事を使って転載推奨なのか?

 もうひとつの転載騒ぎにかすんでしまっている感もあるのですが気になります。

 もうひとつ追記。

 記事発信元で該当記事に関する「お詫び」と転載先への記事削除要請がありました。

 【お詫びとお願い】

 直前にもうひとつ私個人としては重要と思われるエントリがあったんですが、それは削除されています。

 # 振り回されておるなぁ。ぷんすか。あとで考察エントリを立てよう。

同じところをぐるぐる回る人

 アジア版 Rainbow Six Vegas をプレイし始めました。これはその体験報告エントリです。どこかの論理破綻した方の話ではありません(w)。

 Rainbow Six Vegas xbox360

 なぜゲーム関連の記事かと言うと、マルチプレイで荒業を用いて経験値稼ぎをするゲーマーがいるらしいので。

 Vegas のマルチプレイは参戦するとその活躍に応じて経験値がもらえます。それをためると階級がアップしていきます。

 階級がアップするすることで得られるメリットは何かと言うと、「アイテム解除」。マルチプレイで使用できる武器、防具、服の色などが多くなるという、ゲーマー心理をついたえぐい(?)仕様。

 これはアイテムを手に入れねばなるまいと必死になるユーザーも多いわけで、普通は気の合う仲間とガンガン対戦して経験値を稼ぐのが本筋でしょう。

 しかし、やはりズルを考えるユーザーもいるのです。

 出会ったものは、「サバイバル」(全員が敵。生き残りかつ殺害数の多いものが勝ち)というモードで、マップはラスベガス大学図書館という大きな建物の中とその周囲。

 数人で戦っているうちに、二人ほど「くるくる回っているだけ」という人がいる事に気づきました。自分の身長ほどの半径をただ回るだけ。

 マップオプションは5分サイクル、決着がつくと同じマップで自動的に次が始まるものです。次のサイクルでももちろんくるくる回っています。10回以上セッションしましたが、同じ人たちでした。

 なぜかと考えるに、 Vegas では負けてもわずかではありますが経験値が稼げますから、これを利用して「延々と回り続けているだけでポイントがもらえるとはオイシイではないか」ということになりませんか。

 たとえば専用に設定したサーバーを立ち上げて、そこに参加し、スロットをオープンにすれば外部から参戦可能ですから、私らが楽しむ分にはどうと言う実害もないのですが、ちょっと気になる。

 一番の疑問は「何で回るのか?」と言うことですが、理由はわかりません。動いていないとチートになるとかでしょうかねぇ。しかし、方法は至って簡単。

 コントローラーの左スティックと右スティックを強力な輪ゴムでくくり、内側に倒した状態にするだけで、その動きを再現できます。試しに手で倒してみたら同じことが可能でした。

 こうすれば、放っておいてもゲームは進み、経験値は貯まるのです。

 いや、やりたいとは思いませんが。(w)

自縛と自由

 まずはチェスタトンのコラムから引用してみる。

 なぜか、「自由思想家」はまず自分の自由を売り払うことからはじめる。そして、そのかわりにゴッタ煮のような気のきいたものにありつけるわけではなくて、まさにゴッタゴタの混乱に陥る。自分の自由を売り払ってしまえば、あとに残るのはなんだかこんぐらかった理屈だったり、独りよがりの解釈だったり、独善、まやかし、はやりすたりのたぐいである。

 自由思想の自縛 p24より

G.K.チェスタトン 「求む、有能でないひと」 安部 薫 訳 国書刊行会


 このブログでも何度か言及してきたが、「自由」の履き違えがこういう結果を招く。そして「自由主義者」は「自由の履き違えをしても自由じゃないか」という自由を自由と考える点で自分を自由と思い込み泥沼にはまると言うことを知らない。

 この世界は「自由主義者」が闊歩できる世界でもある。自由主義者は居場所にたどり着くや独自の理論を自分の周りにこしらえ始める。それが自由であり、自分の自由を守るものだと信じている。

 それが実は自分が張り巡らせた蜘蛛の巣であり、自由主義者はその蜘蛛の糸に見入って「なんてうつくしいんだろう」と悦に入る。そしてその蜘蛛の巣を作る蜘蛛はまた蝿でもある。蜘蛛であり蝿であるそのものは自分の羽で自分の巣の周りを飛び回り、そして自分の蜘蛛の巣に絡めとられる。

 そして自分で絡めとられつつ自由を叫ぶ。

 その蜘蛛の巣を払うものはいないのか。

 チェスタトンは言う。

 唯一正統の権威だけが、次から次へと現れては人を呪縛にかけるワナを敏感に察知して、自由を救いうる守り神である。
 自由思想の自縛 p26



 そう。多くの者が訳知り顔で笑い飛ばす「正統」であり「権威」と呼ばれるものこそが、自由を守る。

 問題は、その「正統」と「権威」が何であるか。

 これを理解しない限り、自由は蜘蛛の巣となる。

沈黙の多寡

 アンケートとはそういうものか? と誤解させるから教育上良くない。

ブログ流行語大賞 豊富な「新聞発」 IZAhttp://www.iza.ne.jp/

 そして、中韓と仲良くすべきかを問う毎日新聞のアンケート記事での「今回のこたえは数字の上では『しなくていい』が圧倒的だったけど、応募しなかった多数のサイレントマジョリティを考慮にいれて決定させてもらいます。中国・韓国とは仲良くしたほうがいい。あたりまえの話だよね」とのくだりにいたっては“豪快系”と呼ぶしかない。「サイレントマジョリティ(積極的発言をしない多数派)」という言葉を一躍流行語にし、無数のネタを生んだ、実にパワフルな一節だ。



 選択バイアスを働かせてわざと偏った結果を出す手法は古今東西行われているという現実はあるにせよ、ともかく結果を考慮してそれなりの考察をしなくちゃいけないのがアンケートなんだがなぁ。このむちゃくちゃな結論はそうそうお目にかかれない。

 新聞社なら、臨床試験で目的にそぐわない結果が出ても「だって効くって思うんだから売ったのよ」と製薬会社が言ったら大騒ぎでたたくだろうに。

 サイレントマジョリティでいるってことはそれだけで新聞社にとっては好都合で好きに扱われてしまう。そして黙っている側が「サイレントマイノリティ」だとしたら「言論弾圧の被害者」として扱われる。

 共通項でくくられるその「サイレント」を多いとか少ないとか良いとか悪いとか自分の価値観によって定義するのが新聞社なんだから、これはもうどうしようもない。

 実際のアンケートを見たわけではないが、「中韓と仲良くしたほうがいいか悪いか?」という設問がまたおかしい。「仲良く」という主観的な軸でアンケートをとるという設問ですでに情報バイアスをかけている。

 実のところそれで「仲良く(は)すべきだ」という回答が多くなることを予想したんだろうけど、この(は)に引っかからず「(現在の国益にかんがみていまのところ)仲良くすべきでない(むしろなあなあにならず毅然とした態度で臨むべきだ。仲良くするのはそれからだ)」という答えがおそらく多かったものだから、結果として新聞社が日本と中韓の仲を悪くすることを煽ったみたいになったからあわてて「サイレントマジョリティ」みたいなものを持ち出したんだろう。

 甘い言葉で世論を操ろうとしたら失敗したと言うところかもしれない。とすれば自業自得以外のなにものでもない。

 つ[☆自業自得大賞☆]  おめでとう!

leased territories

 タイトルの訳は租借地。

租借地 wikipedia

租借地(そしゃくち)とは、ある国が条約で一定期間、他国に貸し与えた土地のこと。具体的には、日清戦争後、英仏独露のヨーロッパ列強が、清国を脅迫し、沿岸の要地を租借したのが嚆矢であり、帝国主義列強による勢力均衡の賜物である。

租借期間中は、貸した国には潜在的な主権が存在するが、実質的な統治権は借りた国が持ち、準領土となる。立法・行政・司法権は借りた国に移る。


 ブログも一種の租借地ではなかろうかと思い立ったのです。ユーザーはシステムの利用規約に同意してブログを始めることで実質的なブログの統治者となりますし、その中でのルール(ローカルルール・オレルールなどバラエティに富んでいる)を打ち立てて、その上で立法・行政・司法を一手に掌握しています。

 ブログ主とそこに出入りする人たちにより個々のブログは一種の自治空間として機能し、その形態はブログ主の考え方により千差万別なものとなりますね。その千差万別の中にも類型が見られます。独裁的に異見を排除するブログとか、うなずき合いが著しいブログとか、普通にエントリを立てて普通に読まれているとか。

 個々のブログがおのおの無関係に発生し消滅していくだけならややこしくはないのですが、相関しあってブログ圏というなにやらスマートな言葉で述べられるような集合ができると、今度はそこに「国際法」的なルールが形成されてくるようです。

 そこで厄介なのはその「国際法」は不幸なことに個々のブログ主にとって「主権」じゃないと考えられることでしょう。守るべきかもしれないが、特に強制力のないものであり、まぁ気にしなくてもなんともないような感じ。例えるなら今の日本国憲法みたいなものかも。(<いいのかな。汗)

 そして、一部のブログ主はローカルルールを「国際法」と思い込んでいたりするようです。カギカッコつきで表記したのは、そのローカルルールを「ほかのブログ主すべてが絶対必ず守らなければならないものなのである」という解釈をするようなので。つまり「自分」がブログ圏の主権者なんであると考えるようなのですね。

 これはちがうでしょう。「あなたが私たちの主権者かい?」と。

 本当の主権者はだれかというと、ブログシステムを運営しているサービスシステムですね。「潜在的に主権を持つ」ということは、それがいつ顕在化するかはひとえに主権者に任されます。

 システムにもいろいろあって、なるべく表に出てこないように振舞うところからことあるごとに主権を用いるところまで幅があるようです。

 私たちにとって救いなのは、一応、「国際法」と言うべきものが出来上がっていることです。それを知り行動している限りは大過なくすごせます。意見の主張もできるし活発な論戦もできるし、国際法が存在する限りは自由に振舞えます。

 しかし、真の主権者であるシステムがひとつ、特別な機能を持つサービスを始め、それがその租借地内で用いられているというのを最近、その租借地内に住む知人から聞かされました。

 結構難しいサービスで、その租借地内では不具合も報告されているようです。さらにその不具合に応じて主権者の恣意が結構働いているらしい。私はそこに住んでいるわけではないですから伝聞にしか過ぎないので断言できず残念ですが。

 なかなか不自由な租借地のようです。

 願わくば他の租借地に件の租借地で主権者が行う主権行使方法と新サービスが広がらないことを。

 国際法を支持するものとしてはそう思わずにいられません。

先読み貧乏と言う言葉に思う

 ああ、わかるわかる。で終わっちゃいそうなんですが、ちょっと待てよと、あえて突っ込みたい。

 じゃあ、この「先読み貧乏」さんって何だろうと・・・。たぶん大学院生のモラトリアムに気分は近いと思うんですけど、ある物事が起きると、どんどん先を考えてしまって、結局、動けなくなっちゃう人なんですよ。

 情報はあるんです。それで、自分の持っている溢れる知識で普段からいろいろ考えてはいるんですよ。ただ、その知性、豊富な知識で、自分は何を獲得するかを断言できるまでには至っていない。それで、「ああ、自分にはまだまだ知識は足りないんだ」と思ってしまいさらに先読みを続けてるんです。

 それでいつか、「あれはもう古い」とか「もう終わったね」と自分で判断を下してしまう。それで、気が付くと、時間だけが過ぎている、と・・・。

「私は器用貧乏ではなく、先読み貧乏なんです」というメールが来たんだ。先読み貧乏ってナンダ?
イトイさんに聞く「Web2.0」(その3)


 こういう気持ちになることはあった。ある物事に関して考えるんだけど体が動かない。自分で考えをつらつらと重ねていき、そのどれもに自分で納得してしまい、自分で萎えていくような感じか。

 一番目にいえることは、暇だったんだなぁと。考える時間はいっぱいあった。第二に、出来事はあっても動くべき動機がなかった。周りの環境が平穏に思えたし、怒りを抱くような対象もなかった。ゆったりとした思考で時間が流れていくなか、考えだけは刻々と広がり、やがて収拾がつかなくなって白ける。

 先読み貧乏でいることって不幸だと思う。ムーミン童話に出てくる哲学者のように、「無駄じゃ無駄じゃ」で終わってしまうのは、本人的にはそのときそれでもいいだろうが、振り返れば不幸だろう。

 先読み貧乏ってのは実は先を読んでるんじゃなく、その場その場の考えが移ろって行くのをただ眺めているだけのさめた状態なんじゃなかろうか。

 先読み貧乏と言う言葉は、だから、反面とても良い言葉だと思える。「ああ、自分は先読み貧乏なんだ」と言語化できるなら、そこから動ける可能性が自分にはあると分かってるってことだ。

 今東光和尚が「ぼやぼやしてるんじゃねぇ!」と喝を入れる場面を思い出した。分厚いメガネの奥で光るつぶらな瞳。

 そういえば和尚が良く使う言葉に「遊戯三昧」(ゆげざんまい)があった。先読み貧乏の対極だろう。

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