2007-01

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崇高と唾棄

 転載機能を使った「善意の転載行為」が嫌いだ。何でかを考えてみた。

 大体のところ、出発点は個人の想いだ。それをブログにエントリすることで、読んだ誰かが共感してほかの誰かに伝えようとする。普通はここで転載に拠らない方法で広めようとする。

 しかし転載機能が働いている社会では、ぽちっと押すことで簡単に示せる。「ほら見て! これ読んで! ほかの人にも知らせて!」という感じか。

 ここだな。もとの記事を読んで共感し、その共感を広めようとする行為そのものが嫌なんだと気づいた。

 個人の思いを個人が受け止めそれを他人に伝えようとする行為の連鎖は情報の共有という点で有用でもあるが同時に危険だ。ときにそれは人をも殺す。口コミだってそうだ。

 転載で何かを広めようというのは、社会的な行為になる。

 善意の転載は誰に向かって語るのか。

 社会だ。

 だからこそ強く疑われるべきなのだ。

 なぜなら、個人が社会に対して発言しその連鎖を要求するのは、一人の人物がその発言の背後に社会を背負っている表明になる。

 これは政治だろう。

 オルテガの言葉を思い出したとき、卒然としてそう悟った。こんなことを書いている。

「人類に向けて話すという習慣は、最も崇高なものであり、それゆえ、デマゴギーの最も唾棄すべき形式なのである」
(白水社版 大衆の反逆 p11)

 その政治性を背負う気概もないくせに、お気軽に転載で社会を語るなと。自らの崇高性に酔うんじゃないと。そこに不確かな情報やデマが有ったら、それは唾棄すべき最低の行為になると気づけ。

 その批判を受けてたつ覚悟のある善意の転載など、見た事もないし、ましてやそれを中継する者たちにそんな気構えは微塵もないだろう。そんなことをやるくらいなら政治家になれ。市民運動家になれ。

 政治の世界なら、人類を語る人など掃いて捨てるほどいる。

・・・

 ま、実際にそういう世界にいる人間が「善意の転載」をやったら叩かれまくるだろうし、ひょっとしたら政治生命を失うくらい危険なのかも。
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偏見と理性の再考

 これは青龍さまのエントリ 「伝統」のイデオロギー性4 へのお返事です。
引用の順番が前後しますが、論旨によるものです。ご容赦ください。

 まず、私の問いかけに対してお答えいただき、ありがとうございました。

 理由はシンプルです。私は「人は生まれによる貴賤はなく、その人のなしたことだけがその人を評価する基準になる」という価値観を有しています。他方、天皇制は戦後の象徴天皇制も含めて、天皇家に生を受けたということだけを理由に他の国民と異なった取り扱いをしています。このような価値観は私の価値観と相容れないものですから、そのような制度を公的なものとして取り扱うことに反対です(当人が納得している分には私的なものとして取り扱うことには異論はありません)。従って、君が代という天皇の長寿を願う歌(君が代の「君」が天皇を表すというのは国旗国歌法制定時の政府の公式見解でした)を歌う気にもなりません。それは私の価値観に抵触するからです。


 青龍さまのお考えは良くわかりました。かといって、そのことに同意するかどうかはまた別問題となりますが。

 私が判らないと言ったのは、去年のある事件に関して、もちろん青龍さまとは関係ない話なのですが、同じように天皇制を否定する輩がいるため、今現在のこの話と整合性をつけたかったからです。

週間金曜日のお粗末劇

 こういう唾棄すべき輩の行動に、非常な疑問を持っています。この件に関する私なりの考えは次のエントリで示しました。

皇室中傷劇 解題

 上記エントリでも述べていますが、彼らは「人権」を盛んに強調します。しかし、こと天皇のこととなると、平気で「人権」を踏み越えた行為を行います。天皇とて、その行為やお立場に法的制約はあるにせよ、ひとつの人権を持つお方ではありませんか。皇室ご一家とて同じではありませんか。それが、これだけの中傷行為を平然と行うのなら、彼らの言う人権とは何であるのか、という点で批判をしています。

 青龍さまはみなひとしなみに平等であるという考えをお持ちですから、その点では彼らとの相違が明らかになりました。 

 また国旗国歌については前回述べたことの繰り返しになりますが、イデオロギー性を意識しないことはイデオロギー性がないことにはならないという点に尽きます。G.R.さんのレトリックは、国民の多くが初詣の宗教性を意識していなければ、初詣が宗教行為ではないことになるといっているのと同様に論理の飛躍があります。


 国政と宗教が統合されている場合はそういえるかもしれません。しかし、前者は国民の付託を受けた統治機構であるのに対し、後者は個人の信仰であり、青龍さまが仰るような並列の議論はできません。もちろん、国が特定の宗教を個人に強制するということは、さまざまな問題があるでしょう。これは非常に微妙な問題を含んでいると思います。しかし、国民の付託を受けた政府があり、その政府を有する国が象徴として今の国旗・国歌を定めることが、そのままそういった議論になることも難しいのではないでしょうか。

 天皇は(過去の歴史はどうあれ)現在は象徴としての存在であり、私としてはその象徴としての天皇を否定するべき理由がありません。これを「無自覚」であると指摘しておられるのでしょうが、自覚的に象徴と認めるということ自体すべて否定されなくてはならないことなのでしょうか。


 ここでも、理性に対する言いがかりに近い非難がなされていませんか。特にG.R.さんの定義する「伝統」がまさに合理主義の帰結であることを考え合わせれば、G.R.さんの理性批判はまさに自己撞着に陥っているといえます。


 ここは青龍さまの理解と全く違います。

 保守主義では、国を統治するのおいて個人の理性、個人の考えはとてもか細いもの、射程距離の短いものである、という認識を持つと思います。しかし、それは個人の理性そのものを否定しているわけでは有りません。国という存在があり、過去から現在へ連綿と続いている歴史のなかで培われたわれわれの祖先が残した知恵は、私たち一人ひとりが一代限りで考えうる理性による思惟よりはるかに大きいと考えます。

 一方社会主義に代表される思想は、当代の人間が考えて作り上げた社会設計のもとに運営されるものであり、その背景には人間の理性への無限の信頼が前提されています。この点が危ういものであるという考えが、保守の思想にはあると思います。

 国というものを考える点で、私と青龍さまは、その点で根本的に思想が違っていると言えます。これは個人レベルではどちらが良い悪いと決着できるものではないと考えます。

 また、理性至上主義(こんなものが本当に存在するのか疑問ですが)に社会主義の失敗の責を全面的に押し付けるのも論理の飛躍があります。この論法を使うのなら、「伝統」に執着した大日本帝国の失敗は一体何にその責任を押し付けるのですか?


 社会主義の失敗は人間がその限られた理性(理性信仰といっても良いでしょうが)により作り上げた計画経済の失敗そのものでしょう。また、社会主義国に蔓延した政治的腐敗が一因でしょう。社会主義国が収容所群島などと呼ばれた時代です。
 一方の大日本帝国の失敗は、世界の趨勢がそうであった時代に、各国列強と肩を並べるため帝国主義を行い、その結果軍部の独走を許し彼らの戦術的思慮のなさから来た無謀な政治戦略の帰結だと思えます。実際に第二次世界大戦においても上層部は独走しましたし、軍内部にはその戦略性の無さを嘆く声も多かったのではないでしょうか。

 「伝統」を「社会を維持する知恵」と定義するのであれば、それはまさに合理主義ではないですか。すなわち、この場合の「伝統」は、過去にその「伝統」に従うことによって社会が維持されてきたから現在においてもその「伝統」に従うことによって社会がよりよく維持できるだろうという推論がその正当性を支えることになります。


 この点は保守主義の考え方からすれば、青龍さまの認識が私と違うとしかいえないかもしれません。

 G.R.さんの言う保守主義も「伝統」を無条件に維持しようとするものではないでしょう。「劇的な改変をなるべくしないように考える」ということは裏を返せば、劇的でない改変を否定するものでもないし、劇的な改変であっても必要性があれば認めるということです。


 これは、まだ考え方に相違があります。日本ではなく世界に目を向けてみると、保守主義は伝統を伴う「国体をそのまま維持」しようという思想です。一方、社会主義はその伝統を伴う「国体を完全に否定」するところが出発点となるイデオロギーであろうと思います。

口承文芸としての転載機能の一考察

 私がここFC2でコメント欄を設けている理由は、批判的な記事を書くことが多いので、その突っ込み可能性を担保するために恐る恐るコメントを受け付けている、というもの。実際そういう突っ込みはあるし、それがまた有意義に機能するという点は確認している。

 一方、そうではないコメント機能もあるわけで、よく引き合いに出されるのがY!の短いコメント欄。字数制限があるのでまとまったコメントをするにはかなり不便な仕様だというのはおそらく周知のことだと思う。

 この違いを文化的な面でとやかく言うのはお門違いだと思うが、あるシステムの仕様として考えれば、Y!はその機能で顧客を選別しようとしているというのは考えられる。えっけん氏が擬似SNSと指摘したのも頷ける(ソースはどこだったかな。すみません、思い出せません)。

 さて、この違いはおそらくブログ主間の相互交流をどう設定していくかという開発ポリシーの相違であると思える。FC2はクラシカルなブログという設定であるのに対し、Y!は相互交流を促す目的という違いか。

 事実、人気度やファン機能など、相互交流の程度が目に見えてわかるバロメーターが設置され、アバターなど個人の(仮想であれ)属性が瞬時に認識できる装置もあり、それらは比較的安心して行えるユーザー間の相互交流という目的から見ればきわめて合理的と思える。相手の性別などを伺わないで会話ができる。この点は阿檀氏の議論が参考になる。

 上記のような点からすれば、Y!ブログは会員間の交流においてなるべく余分なコストを取らないように工夫されていると考えられる。これをY!の低コスト高交流ポリシーと呼ぼう。
 
 さて、そういう観点から見てよくわかんないのが転載機能であると思える。転載機能自体は、Y!の低コスト高交流ポリシーからすれば十分合目的な機能と思える。転載によりその記事の内容に同意を示し、報告コメントおよびお礼コメントを繰り返すことで相互交流が生まれる可能性はある。

 この点で、実は相互リンクやTBなどよりももしかしたら効率がいいと考えてよいのかもしれない。

 これは情報伝達コストの問題といえそうだ。もしかしたら口承文芸と筆記文芸のコストに関する考察が参考になるかもしれない。

 もともと口承文芸(昔話など)は文字が使われる以前からあった物語伝承形態で、文字の使用および印刷技術の発達により筆記文芸に取って代わられたという認識が一般的にある。

 しかし、実は筆記文芸(ブログなども含む)は、実は高コストなものであり、口承文芸は(そのほとんどがある類型を持ち構造も比較的単純であることから)筆記文芸より伝播しやすく聞いてすぐに語れるという点で低コストな文芸であるという指摘がある(関敬吾「民話」岩波書店1955 など)。

 これは実にそのとおりで、ブログにおいてもひとつのエントリをあげる作業は「語り」で伝えるのに比べて圧倒的に作業量が多い。

 ここで、「語り」という用語を使ったが、転載機能はこの口承文芸もしくは他者の「語り」を極めて低コストで伝播できる機能であると考えてよいと思う。形態は筆記文芸だが、それを読み、それをそのまま他者に伝えるという点では口承文芸にきわめて近い形態といえないだろうか。

 つまり、転載機能は、物語(エントリ)を口伝えで他者に広めるという機能を持っている。開発者はそのようなことなど思いもしなかったかもしれないが。

 こう考えると、いくつかの点で問題があると改めて指摘できる。

 ひとつは、著作権問題。私は著作権関連に詳しくはないのだが、一般的に、ブログにおいては著作物はその作者にすべての権利が帰する。それを他者(他のブログ主が想定するそのブログの読者)に伝える場合、筆記文化であれば、その著作権を考えざるを得ない。そのためリンクとか引用などの範囲内でその行為を行う。しかし、転載機能=口承文化と考えれば、(書いてあるものかどうかは問題とせず)その「内容」を「低コスト」で他者に「示す」(=自分の物語ではなく、他者の物語としてでもなく、普遍的に存在する昔話的に、一般の物語として「語る」)ということが可能となる。

 こう考えれば、著作権問題は原理的にその行為と不具合を起す。

 もともと昔話に著作権が無いように、口承イメージで伝承される記事は、著作権を想定していないとして扱われても不思議ではない。

 また、以前にも考察したところだが、口承は伝え聞きであり、その言説(というか記事内容)に対する責任性をなかなか持ち得ない。その拡大がたとえ流言飛語になろうとも、伝承者一人ひとりは表に出てきにくい。

 これらのことを考えると、転載機能というのは筆記文芸とは根本的に相容れない性質のものであると考えることができる。

 ブログが筆記文芸の範疇である限り、転載機能はその立場と永久的に背反する性質を有するだろう。

 そうすれば、Y!ユーザーはY!の低コスト高交流ポリシーに反して何がしかの高いコストを支払わなければならないリスクを常に背負うことになりはしないか。

・・・

 ということで、転載機能議論に幾ばくかでも資すれば。

 あと、長々と書いてしまいましたが、どっかで激しく既出だったらごめんなさいね。(^^;

給食費未払いについて思う

 不覚にも泣けてしまったので、エントリ。

マツオカ先生とツトムの話 木走日記 

 もうね、ぐだぐだ言いたくない。払えるんなら払ってやれよ。給食費。なに怒られてごねてんだよ。

 そういう小さいところから誇りをなくすと、ほんとに何にも残らないぞ。見栄えは良くても使いものにならない粗大ゴミみたいな人生送るぞ。子供はそれを見てるんだぞ。きっと。

・・・いかん。熱くなってしまった。

 すこし頭を冷やしてから考え直そう。それまで↑は晒し者

・・・

 んーと、一晩時間をおいたが、気持ちは変わらなかった。

 払えるんだったら払え。以上。

伝統のイデオロギー性 思想の対比

 これは青龍さまへのお返事です。

 まず、大変長い間お返事ができなかったことをお詫び申し上げます。しかしその間にも興味深いことがいくつかあり、いろいろと考えてはおりました。

 さて、本論ですが。

青龍の雑文Blog はてな別館 「伝統」のイデオロギー性3より引用

 そして、「伝統」はその時々で、社会の変化や価値観の変化に応じて、改変されていくものであり、その改変の際には「伝統」が有するイデオロギーと改変を要求するイデオロギーを比較・選択することになるのです。この点は、保守思想の内部での改革と、異なるイデオロギーに基づく改革で変わりないのです。しかるに、G.R.さんからすると、両者は異質なものと評価され、前者は肯定的に評価されるのに対して後者は否定的に評価されるのです。


 青龍さまのお考えでは、あるイデオロギーが「伝統」をどう扱うか、という視点が見えてきません。
 具体的に言いますと、保守主義的視点は「伝統」(いちおうこういう呼び方で続けますが、あとで整理します)を保守し、劇的な改変をなるべくしないように考えると思います。
 一方改革を考えるイデオロギーでは、そういった「伝統」を非合理的なものとみなし、自らのイデオロギーが拠って立つ所の理性を用いて社会を運営しようと考えます。この点でこのイデオロギーは「伝統」を否定します。

 ここで、「伝統」という言葉の確認ですが、私は、その社会が過去から営々と築き上げてきた社会の中で自然発生的に形成されてきた、社会を維持する知恵という意味で用います。これがバークの言う「法の支配」であり、「コモン・ロー」ということになろうかと思います。また、チェスタトンが言うところの「墓石にも投票権がある」ということでしょう。(この点でチェスタトンの言い回しは独特なので、多くの説明が必要かもしれませんが、今は示すにとどめます)


歴史を紐解いてみれば解りますが、士農工商のような階級制も、四民平等も到底自然発生的なものではなく、その時々の政治権力がその目的達成のために定めたものにすぎません。江戸幕府も明治政府も過去の統治機構を武力で倒すことによって成立したものです。国旗国歌についても、そもそもそんなものは明治以前の日本には存在していませんし、国旗を掲揚し国歌を歌うことが国民統合のの手段となり得るという考え方も、国民国家成立以前には存在していないのです。

 以上の例を見れば、これらが自然発生的なものであるというのは間違いであることははっきりしています。どれも、その時々の政治権力がその目的を達成するためにあなたの言う「浅薄な人間の理性・知性」により作り変え・または作り出したものなのです。

 もちろん、社会に存在する価値観の中には自然発生的に形成されていったものが存在すること自体は否定しません。しかし、あなたの言う保守思想は人為的なものまでしかも選択的に「伝統」の中に放り込んでいる点で問題があると思います。


 士農工商も明治維新も歴史的ダイナミズムの「中」のことであり、保守主義イデオロギーも革命主義(社会主義)政治イデオロギーもそのことどもを「扱う」立場になると思います。

 具体的に言えば国旗国歌の成立も、明治政府が外国と比肩する為に国家としての日本に必要であるとして定めたものであり、考え方としてみればそれ以上のものでも以下でも有りません。ただ、それをイデオロギーとして扱う勢力があるというだけです。また、現在の日本国民の「多く」はそういう政治イデオロギーに与せず、自らの国の「象徴」として現在の国旗国歌を認めているという意味で、イデオロギー性は殆どないか、薄いと思います。

 ただし、その象徴としての国旗国歌でさえ否定するある範囲のイデオロギーへの「カウンター」として何がしかの行動をしなくてはならないという現状があるのではないでしょうか。

 繰り返して確認しますが、私の立場としては、国の伝統や象徴は、基本的にイデオロギー性は薄いと考えております。

 フランス革命で行われたことはアンシャン・レジームの破壊であったと思いますが、それは同時にその当時隆盛していた啓蒙主義に基づき、「理性により社会を創造し統治する」という理性主義が発生した契機でもあったと思えます。

 人の理性がその世代において社会を構築するという理性至上主義(中川八洋氏は理神教と呼んでいますが)が社会主義を胚胎させ、やがてソビエト連邦などの社会主義国家が形成されましたが、それらはすべて計画経済の名のもとに、理性により社会を維持しようとしました。これが大きな間違いであったということは歴史が証明したのではないかと思います。保守主義はその理性主義を否定する思想として生まれたという面があると思います。

 さて、ここでひとつ判らないので改めてお伺いしたいのですが、青龍さまはなぜ国旗国歌の「押し付け」という表現をなさるのでしょう。青龍さまの立場からのお考えが、いまひとつはっきりとわかりません。こちらの理解力不足という点もあるかと思うのですが、ぜひ根本的なお考えをお示しいただきたいと思います。

 なかなか難しいお話が続き、こちらも悪戦苦闘してエントリしております。自身の勉強不足の感は否めませんし、内容の不備な点お笑いになられているかとも思いますが、どうかご容赦を。

 

春を待つ手紙

 何事かについて何かを言いたいのに、言葉が出ないときというのがあるみたいだ。判っているのに、言いたいことはあるのにも関わらず、何も言えない感じ。何でかと考えてみた。

 きっと、対象が余りに近かったり、逆に遠すぎたりするからだ。自分の思いが届くちょうどいい範囲でなければ語れないことというのが有るみたいだ。それがすべてじゃないけど。

 遠ければ、近づく努力をすればいいんじゃないかと思う。少しづつでも、近づく努力はできると思う。頭で考えてあれこれ試みていくうちに、不思議と、近づいているといる実感が湧く。そうすると、なんとなく、言葉が出てくる。その言葉がまた距離を近づけてくれる気がする。

 けれど、近すぎる場合は厄介だ。突き放すなり切り離すなりしてからじゃないと、語れない。

 自分を切りつけると同じような痛みだってあるかもしれない。

 ここでいつも思うのが、切り離すことが必要なのかってこと。

 できそうもないなぁと思えることもある。そういうときは黙るしかないのかも。

 もちろん、自分を遠ざけておくって手もある。

 さて、唐突に引用。

 拝啓
 フランスでの最近の事態について私の書簡を重ねてご熱心にお求め下さったこと、恐縮に存じます。私の所感など御懇請戴くほどの価値があるとは、私自身思ってもおりません。それはまったく取るに足らないものであり、お伝えするかしないかについてとやかく心を砕くほどの代物ではありません。最初にそれをお望み戴いたとき私が躊躇ったのは、貴方の――本当に貴方一人だけの――ためを考えてのことでした。貴方に宛てて認めさせて戴いて結局はお送りすることになった最初の御手紙の中でも、私は特定の人々の立場から書いたり、またその人々のために書いたのではありませんでした。以下でもそうする積もりはありません。私には誤謬もありましょうが、それは私自身のものであって、私に向けられる世評だけがそうした誤謬に対する回答となるのです。

フランス革命の省察 エドマンド・バーク 半澤考麿訳
みすず書房版 第一部 冒頭より


 これは保守主義の父と呼ばれるイギリスの文人エドマンド・バークが遺した言葉。フランス革命の騒乱を徹底的に批判し、穏やかかつ公正な言葉でイギリスの有るべき姿を示し続けた人物だった。

 現在のアメリカで保守主義といえばバーク主義であるとも言われ、バークのこの著書は当時から現在に至るまで保守思想の淵源ともいえる影響力を保ってる。

 そんな豆知識今はどうでも良くて、バークでさえ、自分を遠ざけて、自分の愛する国の人々を遠ざけて語ったのかもしれない。それが、あの熱い言葉になったんじゃないか。

 あの著書が誰かの立場を代弁して書かれたのなら、これほどの影響を後世まで与えはしなかっただろうな。

 ということで、引用は笑えるくらい大げさな話だが、ちっぽけなブログだって、何かを批判するスタンスならちょっとはそういう矜持を保ちたい。

 ただね、身を切るようなことって、辛いのですよ。

OYAJI氏の言葉に同意する。

 思うところあってここのところOYAJI氏と話をしていたんですが、とても興味深いご発言がありましたので、引用して私見を述べます。

ちなみに、私は「私の行動」についてあれこれ言ってくる議論には
何の興味も無いのですよ。むしろ時間の無駄。

率直な意見として、セールス氏はY!の商品価値を落としていないか? コメントより


 私はこれを「あなたは、私を裁けるのか? 裁く立場にあるのか?」と脳内変換しました。

 たしかに。

 私もそれを行った一人として、冷や水をかけられたような気分になりました。

 誰が誰を裁くというのでしょう?

 裁く側にはネットの正義があるとでも?

 思い上がるのも大概にしなさい、と言われそうです。

 ゆっくりと議論をする、対話をする。聞こえはいいが、そこに有るのはねちねちとした個人攻撃ではないのか? 何を変えたがっているのか? 変える必要があるのか?

 転載機能を否定し、それを駆使するものを封じ込めようとするなら、その「原理」は何なのだ?

 批判するなら徹底的に「機能」を批判していけばいいではないか。

 タバコがいけないから、タバコを吸う人間を否定していいのか? タバコを売るタバコ屋を批難していいのか? なんならタバコ屋を打ち壊しでもするか?

 OYAJIさんと話をしていて、私に向けられた彼の言葉はそういうことではないかと、思えるのです。

藤原正彦:美しい理想郷を夢想し回想する人

 美しい日本と国家の品格を足して二で割って振り返ったことにすれば、理想郷が出来上がるかもしれない。

【正論】藤原正彦 若い君への年賀状 (IZA)


 読んでて違和感があるのだが、特にここで引っかかった。

 法律とは網のようなもので、どんなに網目を細かくしても必ず隙間があります。だから道徳があるのです。六法全書が厚く弁護士の多い国は恥ずべき国家であり、法律は最小限で、人々が道徳や倫理により自らの行動を自己規制する国が高尚な国なのです。わが国はもともとそのような国だったのです。



 恥ずべきとか高尚とかって問題ではないと思うのだがなぁ。

 そういう基準を持ち出したら、道徳や倫理が法より上であり、法は「下品」で道徳や倫理は「高尚」ということに取れる気がするが、そうか?

 道徳や倫理を持っているから私は高尚だという人は高尚だとは思えないな。

 道徳や倫理を持っている人たちがたくさん住んでいる国があるとして、それを外から見てみたら「ああ、あの人たちは高尚だなぁ」という感慨は抱くかも知れんが、当の本人たちは「なに? あちきたちが高尚ですって? ご冗談でしょう」と笑うと思うぞ。

 ま、自称「高尚」で「倫理観が高く」て法律が少ない(一人の偉い人が勝手に決めまくる)という独裁国家は知ってるけど。

 ああそうか、藤原さんは[お前の国は高尚」で「お前の国は高尚じゃない」って決められるほど偉いんだ。法より偉いのかもね。



 というようなことを言いたくなるような記事でした。(^^) 落ち着いたらも一回考えてみよう。

 あ、そうだ、青龍さま。近いうちに復帰します。遅れててすみません。(^^)

率直な意見として、セールス氏はY!の商品価値を落としていないか?

 (改訂版。追記があります。追記2もできました。追記3あり升。補遺出来。)

 ある商品のある機能があるとして、それをどう使うかという点で、セールストークを駆使しているひとがいるとする。

 その機能が素晴らしいなら口コミなりネットで広がるからセールスせずとも売れるかもしれない。

 しかし、当の買い手が説明を受けて「うーん、よくわからないなぁ」と首をかしげるような機能が、転載機能ではないだろうか。

 「なんか、世間の評判もいまひとつのようだし、事故も起こったって言うじゃない?」

 そこをなんとかしようとしてメリットを謳いあげることで「ぜひ楽しい機能にしましょうよ! 使い方は簡単だし、使い方を間違わなければ(<ん。矛盾してないか?)だいじょうぶです」と畳み掛けるセールス。

 買い手はそういう時、たとえば原野商法とかなんとか、危ない商売を連想するんじゃないかなぁ。

 とすると、この人のやっていることは、商品説明をして機能のメリットを強調することにより、そのサービスを提供する組織の評判を落としているのではないか?

 ま、これは比喩なんですけど、こうならなければいいな、というひとつの意見として。

 参考記事
もう一度、転載について(9)
危険性を知りながらもなお転載機能を使う理由について


 追記。

 早速上記参考記事へのTBが消されたみたい。(サイドバーとかTB履歴ページにはのこっているからいまだ結構参照されているけどね。)(<1月11日現在でエントリに表示回復。あー、めんどくせぇなぁ(苦笑))

 これから本編が始まるというところで物語が頓挫してしまった感があり残念なんだけど、これもまぁ仕方ないところでしょう。

 以下、別立てでエントリしようと思ったことなのですが、ここでもいいや。

 転載機能の是非についての議論について回るOYAJI氏は、いったいどんな立場なんだろうと改めて考えてみると、ただのユーザーなのです。しかし、あちこちにやってきては転載機能の「擁護」を言うとともに、その「正しい使い方」をレクチャーして回っている、いわばボランティア。いや、語源的に考えれば志願兵か。

 しかも転載機能を批判すればほぼ漏れなく付いてくる。

 そうすると、この人は「転載機能議論」のなかでは微妙な立場にいるわけです。議論の成り行きとして転載機能そのものを批判していても、いつの間にかそれがOYAJI氏を批判しているのか何なのか判らなくなってくる。

 しかも、このOYAJIという人は、議論が不利になると「あー、聞こえない、知らない、俺のせいじゃない」となるから、ますます厄介。こういう状況になるとどうしても「個人攻撃」になってしまうから、それを嫌うブロガーは対話を止めて行く。

 であるから、私としてはこの「転載問題にもれなく付いてくるOYAJI氏」と言う人の立場を相対化したいわけです。張り付いている関係を引き剥がして考えたい。そのためにセールスの比喩を使って見たんですが、見事に(とんでもない方向から)はぐらかされましたとさ。(^^)

 追記2

 OYAJIさん登場。(コメ欄)

 確かに理念は立派。しかし、それが内容を伴っていないと言う悲しい現実があるようです。いや、OYAJIさんにはOYAJIさんなりの行動基準があるようなんですが。さてと、どうなるか。

 もう一個、マイナーな追記ですが、OYAJIさんのやっていることを全否定することはないなぁと感じています。確かに有用なアドバイスはしていらっしゃいますし、それなりに固定客も付いている。ただね。なんかね。なんだろうね。

 もうひとつ。

 判ってきた。あの人の言葉は短時間のうちにほぼ間違いなくコンフリクトを起すんだ。それがデフォルトだとすると、そういうものであるとして対話できるが。

 追記3

 話しているうちに、ことのよしあしはどうあれ、OYAJIさんも努力はしているのだなぁと実感。ただ、現実はもっとつらいことも再認識。

 Y!ブログのユーザーブラックリスト(もしそんなものがあればだが)のなかに、もしかして[思想犯」とか「政治犯」的なカテゴリがあるんじゃないかと思い始めた。

 マイナーな追記。そしておそらくこれが最後の追記。

 どうやら転載批判が同時に「無意味にOYAJI憎し」になっていたのではないかと認識。切り分けているつもりでいたのだけれどね。かの人はかの人なりの考えがあってやっていることをどうこう言えるものではないということだろうか。

 議論は可能だが「馬に無理やり水を飲ませることはできない」という先人の言葉は正しいのかも。(<ここは訂正を余儀なくされた。議論はできない。このことは補遺にて)

 逆に、だからこそシステムそのものに向けての批判は継続しなくてはならないなぁと再認識。

 此処からは非常に個人的かつ趣味的な考察。

 「転載批判派」にとって「憂鬱」な気分になる時期がおそらく近日中にやってくる。今までの経過観察から、Y!が転載機能をこのベータ版ブログシステムの時点で撤回する可能性はほとんどない。撤回するには遅すぎるだけ十分に浸透してしまっている。もともとユーザー軽視の姿勢が鮮明に現れているのだから、実際にどこかで社会的な被害が出てマスコミに報道されるくらいでなければ、転載機能は停止しないだろう。そのときにはY!管理者側はぺこりと頭を下げて詫びを入れ、簡単に機能を外すに違いない。そして何事もなかったかのようにシステムは続いていくことだろう。

 唯一の救いはY!ユーザーの中でむやみに使わないような意識が勢いを増していることくらいだろう。そして、此処が一番大事なのだが、無規範な機能使用に対して用心深くいようという風潮を維持できる環境も整いつつあることかもしれない。

 個人攻撃から距離を置いたところから今後とも議論は続けられるのだから。

 ま、予見が外れればそれで好いんですけどね。

 補遺

 議論は不可能であるという認識に達しつつある。あの人はおそらく強固な信念を持っている。いや、信念といえば賞賛されうるものだが、そうではない。妄執か。何に対してか? 判ろうとは思わないし、それを指摘する権利もない。

 また、無意味と思われる現実に突き当たるであろうことは十分に予想しておいたほうがいいと思うが、ものごとの本当の動きがあるとすればそこからだろうという考えも持つにいたった。

 (ここにもうひとつ書き足しがあったんですが、頭に血が上っていたためと判断し、削除)

 (頭の血が腹に落ち着いたあたりで、脳内反省会議(<わかる人だけ判ってくれればいいです)がアップされていたので読んでみた。くすっと笑った。何やってんだろうなぁ、自分。て思った。今夜は酒が旨いと思う)

善意の原点と批判の方法

 いまさらの話題ですが、自分の中で一度は原点回帰したほうがいいと思い、エントリしました。

 アンサイクロペディアで「善意」というキーワードで検索をかけたところ該当項目が存在せず、ページ内本文と一致抽出結果でいろいろ出てきました。そこから最も関連性のあると思われる項目がこれ。

大きなお世話
大きなお世話(おおきなおせわ)とは、本人は善意で行ったのに周囲からは迷惑がられる行為のことである。小さな親切と一緒に使われることが多い。


 そう。批判する側もされる側も(する側は特に)忘れちゃいけない警告でしょう。(この引用元はクソ記事でも

 自分が大きなお世話をしているんじゃないかという怯えのようなものは常にあるし、だれも肯定してくれないかもという予感もつねにあるわけです。それでも批判するとして。

 じゃぁ何で批判するのか?

 これに対する答えはおそらくこういうことだと思います。

 まずは批判の基礎。

 社会はそれ自体が標榜している原則を実際に体現すべきだという規範は、ユートピア的です。というのも、道義的な原則というものは、ものごとの現実的な、そして今後も変わらぬありようと矛盾するからです。ものごとの現実的な、そして今後も変わらぬありようは、すべて悪であるとか、すべて善であるとかいうものではなく、どちらにも統一されない不完全、不整合、中途半端なものです。道義的な事柄をめぐって私たちが生きている培地は、矛盾のぬかるみのようなものですが、私たちはもろもろの原則に突き動かされてそれを何とかしようとするのです。原則に従えば、自分の行動を整理しよう、そして、道義的な放縦、妥協、臆病さ、さらには、気がかりな事柄から目を背けるのはやめよう、という気持ちになります。
(スーザン・ソンタグ 「良心の領界」 NTT出版 P163-164)



 なるほど、これが批判の原点になるわけです。この、いわば心情の土台の上に立って何事かを批判するのでしょうが、ものごとは(ソンタグが言うように)そう単純ではないとすれば、その批判に「正統性」(<便宜上こういう言葉を使います)を付与するのは何かということです。批判者はこの「正統性」をもって批判の矛先を定め、研ぎ澄まさなければなりますまい。

(実はソンタグはこのすぐあとで「反原則の立場」について重要なことを言っていると思うのですが、この段落の趣旨とは少し離れるのであとで引用します)

 ここで批判を抵抗と読み替えて、少し読み進んだところの引用を続けます。

抵抗もそれ自体では価値がありません。抵抗の真価、その道義的な必然性を決めるのは、その抵抗の中身です。(引用者注:下線は原文では傍点)

 中略

抵抗に本来的に優性な要素は何もありません。抵抗が正当なものか否かは、正義の名のもとに行動しているという、当の抵抗者たちの主張が正しいか否か、その前提をもって初めて成立するのです。ある主張が正当であるかどうか。それは、たとえ主張者が徳のある人だからといって、それだけで確証されるわけでも増強されるわけでもありません。ある事態が正真正銘、不正であり、必然的でない、とする場合、その見解にどれだけ真実が含まれているか、――― 主張の正当性は、徹頭徹尾、それによって決まってくるのです。
(同 P166)


 心情的に批判しても始まらないと。あくまでも冷静・冷徹に真実を見つけろと。そうしなければ批判は意味をなさないということです。

 昨今の転載批判で私は面白がって「チェーン行為撲滅原理主義者」を採用しましたが、なぜ「面白い」かというと、そういう立場の人を見るにつけ、こういった「正統性」を見つけるべくあらゆる努力をしているということがわかるからです。

 権利とか心情とか仕様とかそれに付随する行動規範をくねくねといじりまわして批判する・されるのではないところで、批判者はじわじわと問題を探り見つけ出し、それを提示するのですね。「さあ、これが真実だ」と提示するわけです。

 一方、そうではなく、現状の中で「できることをやる」という立場の人もいます。

 最初の引用文に続き、ソンタグが述べています。

ところが、その気にかかること、というのが問題です。つまり、自分の行為は正しくないと囁きかけながらも、だからこそそんなことで悩まないほうが得策だと忠告してくる、あの密やかな煩悶。
 反原則派の叫び―――「私はできるかぎりのことをしている」。もちろん、現状の中での「できるかぎりのこと」にすぎません。(引用者注:下線は原文では傍点)同 P164


 このように対比すれば、根本からの批判者(転載批判原理主義者)と現状の中で「できる限りのことをする」者との立場の相違が鮮明に見えてきます。

 そして、このような「(できるかぎりのことをすると叫ぶ)現状改革者」(<これも便宜上こう呼びます)にもさらにいくつかの型があるのですが、共通するのは根本からの批判者との原理的な確執です。根本からの批判者は現状改革者の足元をざくざく掘っているのですから、どのような点であれ確執が起こるのは必然的でしょう。

 冒頭の話(大きなお世話)に戻って、批判行為は「大きなお世話」である可能性が常に付きまとうとして、ソンタグの視線で批判するものにとっては、実はそれはどうでもいいことなのかもしれません。なぜなら批判者の興味は「真実はどこにあるのか」ですから、その掘り返した穴で上の建物が傾こうが人が穴に落ちようが、知ったことではないからです。

 いや、実は知っているんでしょうけど、どうにもできないのかな、と思えます。

 だから、間違った穴の掘り方をしてはいけない。このくらいの「良心」は批判者に必要でしょう。そうでないと「大きなお世話」ではなく「大いなる迷惑」になりかねません。

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