2017-04

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ホムンクルスと石ころ

できそこないの男たち (光文社新書 371)できそこないの男たち (光文社新書 371)
(2008/10/17)
福岡伸一

商品詳細を見る

科学者が書く不思議な物語である。手作りの顕微鏡を覗く好事家は、その目に映る精子のなかに小人を見た。ホムンクルスだ。神の視点で見れば、その小人たちは色分けされている。赤と青に分かれた精子は雄と雌を決定すべく必死に、卵子に向かい泳ぐ。

小さな昆虫を解剖し続ける女性科学者が見たものは、分裂しコピーされる、赤く染まった小さな物体だった。染色体と名付けられたそれらのなかにある、一つの「小さく半端な」ものが、生物の将来を決定する。性染色体である。

30億のコードに、たった一つはめ込まれたトリガー。それが、発生しつつある「雌」の流れを変えよと命じる。その命令により引き起こされる連鎖反応が、「雄」を創っていく。目に見えぬ「流れ」が私たちの運命を決定づける。生物は雌として始まり、そのトリガーが引かれない限り、雌となる。

印象深いのが、雄となる引き金遺伝子の発動と、それに続く連鎖だ。カスケードと呼ばれる反応は、膨大な情報を所蔵する染色体のあちこちで、反応し、その反応がまた新たな反応を呼び、雄を「創って」行く。

マッチョな男も、ひ弱な男も、男であると言うことは、たった一つの遺伝子が起動した結果である。

人ひとりの人生を川の流れに例える歌がある。人に運命というものが実際にあるとすれば、それは、大河のように緩やかなものではないと思える。私たちは、予定された河口へと、ただ、何事もなく流されて終わるのではない。

一本の河は沢山の河と合流する。それを「世界」と表現するならば、それは、沢山の河が集合しせめぎ合いつつ生起する反応の連鎖、連鎖の集積、集積のうねりなのではなかろうか。その大河となった流れが今現在の世界だとすれば、そして、元々一本の河だったものが、合流しても元の河であり続けつつ、大河のうねりに飲まれ、波に巻き込まれ、ちりぢりになりそうなまま、なお一つの、一人の、細い河としてあり続けるとするなら、そうしているものは何か。なにが私たち一人一人を、一人一人たらしめているのか。著者の前著を思い起こす。

人の運命と生物の雄雌の決定に相違があるとすれば、生物のそれは減数分裂した染色体が、性染色体(X染色体とY染色体)のどちらを持つか、あのホムンクルスがその小さな手にどちらの染色体を握っているかにかかっているという確率的なものだ。では我々が感じる「運命」はどうか。幸運であり不運であるのは、その何か一つのきっかけ、人の一生という一本の河に投げ込まれた小石がなんであるか、あらかじめ分かってはいないということだ。

流れゆく先に何があるのか、私たちには予想できない。何が何処で投げ込まれるのか、誰にも分からない。分かっているのは、その波紋が、一つの反応を生み出し、その反応がまた何かの反応を生み出すという、カスケードが「ある」と言うことだけだ。遠く、大河の向こう岸で起きた波紋が、いずれ私たちの身近に、思いも寄らぬ形で、押し寄せる。なかには、引きちぎられるものもあるだろう。

大河はカスケードの集積を飲み込みつつ、うねりとなって流れ続ける。そのうねりにもまれ、男と女が出会う。ホムンクルスの握った鍵により、男に「なってしまった」男たち。女性という「真っ当な」存在を見上げるホムンクルス。

大河とは、実は「女」なのではないか。「男」はそこで跳ねる魚か。いや、ひょっとして、岸辺に佇み、世界のカスケードを引き起こすことが、役割なのか。

● COMMENT FORM ●


管理者にだけ表示を許可する

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

straymind

Author:straymind

エントリ

カテゴリ

コメント

全記事表示

全ての記事を表示する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。