2017-08

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子猫を殺すことへの考え その1

 まだ考えが十分纏まっていないので覚え書きとしてエントリします。(2006/08/26改訂)

 まず問題となる文書を掲載します。そして私個人の経験を示します。続いて、この文章がいかに間違っているかを指摘します。

プロムナード(日経新聞8月18日夕刊) 子猫殺し―――坂東眞砂子

こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。
タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。
子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
私は猫を三匹飼っている。
みんな雌だ。
雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。
残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。
当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。
タヒチでは野良猫はわんさかいる。
これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。
しかし、どうも決心がつかない。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。
猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。
だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。
生きるための手段だ。

もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。
しかし、それは飼い主の都合でもある。
子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。
だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。
私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。
子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。
避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。
どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。
獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。
生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
人は神ではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)
引用もとはこちら



 私が生まれ育ったところが田舎でしたので、野良猫(今で言う地域猫?)とか飼い猫が納屋に子を産んでいるのを見つけると、その納屋の持ち主(祖父もそうでした)は子を全て捕まえて川に流していました。もう20年も前のことですが、そういう光景は多くはないとはいえ日常的でした。

 しかし、猫はネズミを獲るというところから、場合により一匹だけ残して継代させることもしていました。その点では「命の選択」が行われていたということです。

 小川の流れに乗って消えていく子猫たちを入れた袋を見送るとき、私は反射的に手を合わせようとしましたが、「だめだ」としかられた覚えがあります。

 しばらく見送る祖父と私。見届けてから家に帰るのですが、無言でした。

 そこから何かの経験を得たかと言えば、わかりません。しかし、袋の中で息絶えていくであろう目も開かない子猫たちの様子は想像できましたし、今でも覚えています。

 その当時の事情により「増えれば困るから殺す」というのは、致し方ないことだと思います。残った子とか親はかわいがられました。猫の名を呼んでかつお節を与える祖母の姿は日常的でした。

 さて、件の子猫殺しの記事を知ってからわき起こってきた記憶を元に書きましたが、これを元に該当文書への批判を少しまとめてみます。

 諸事情により殺さざるを得ないという私の経験からすれば、それは必ず「罪悪感」を伴います。(一部異常者を除きます。動物虐待については項を改めます)

 子猫を川に流した祖父が「手を合わせるな」と言ったのも、「畜生を殺す罪悪感」を感じていたがゆえの、自身の信仰に対する後ろめたさの裏返しでしょう。
 
 その「罪悪感」は、何を持ってしても埋められません。問題の文章の筆者も罪悪感は認めているようです。

 しかし:

愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての『生』とは、人間の干渉なく、自然のなかで生きることだ


 これはとんでもない間違いだと思います。猫にしろ犬にしろ「愛玩動物」というのは長い時間をかけて人間社会に取り込まれ適応して来た歴史があります。害獣駆除・狩猟補助・テリトリー警戒などの特性をもつ動物を人間が選択し、育ててきた経緯があります。

 そういう動物をいま「飼育」する時点で、それはすでに「野生」ではないのです。

 そういう間違いに立脚して:

人間は、避妊手術をする権利もないし、子猫を殺す権利もない


 このように「権利」を持ち出すことが、重ねて間違いになります。このように「権利」を出すことは、忌まわしいとさえ言える妄言に思えます。

 猫という動物を「飼育」している時点で、私たち人間には「人間社会で共生していくために必要な処置を猫に施す場合にはその苦痛を最小限に抑える義務が課される」のです。これは筆者も書いているとおり:

人は神ではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。


 その矛盾や不合理を埋めつつ共生していくために、私たち人間側が何らかの方法を考えなければなりません。そしてその解決方法として生まれてきた「義務」は、私たちの社会が共通して守らなくてはならないものです。それであってこそ、猫が享受できる「権利」というものが保証されます。

 その「共生のための処置」が何であれ、一つの生命に対し何らかの干渉をすると言う点で、場合によりある種の罪悪感を伴うのは当然ですし、その罪悪感を、私たち人間社会が「納得する形で」軽減する必要があり、それが猫の「苦痛」を最小限にしなくてはならない「義務」にもつながるのです。

 その点で、まさにその一点で、猫は「(不必要な)苦痛を受けない権利」が生じるでしょうが、それは「猫が自然的に持っている」権利では断じてありません。それは私たちが猫を飼育するという状況で発生する義務の裏返しであり、飼育されている側の動物に最低限保証されるべき「苦痛のない生活」という限定された範囲での「権利」です。

 そこを間違えて、「猫にも生得的な(人間と同様の)権利がある(=野生の動物として人間に干渉されない権利→人間には猫を手術する権利もないし殺す権利もないと言う理屈)」とするため:

愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ


 という理屈になるのです。

 これを言うなら、「だったら猫を飼うな」と言うことになりますし、世界中の、猫を飼っている人たちを糾弾し、「一匹残らず自然に帰せ」と主張するべきでしょう。また、その考えのもとでは猫は人間の勝手な考えにより不当に飼育され抑圧されている存在だと言うことになりますし、それがために「(もともと不当に扱われている存在である)猫が嫌がるようなことを何もしてはいけない」とする絶対的な「権利の横暴」へと発展します。

 ですから、以下のように「獣の性」を絶対視し、共生関係にある人間を悪と断罪するのです:

獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。


 その「本質的な生」を無制限に許容した場合、人間と猫の共生は不可能になります。そしてこの考えをもう少し拡大すれば、「牛も豚も飼うな。人間の都合で(食糧として)殺すな」ですし、その上で人間社会に「獣」が「存在」することを許すなら、歴史的に見れば(呪術的意味合いは多々あったにせよ)「生類憐れみの令」に似た状況、狂った決まり事がまかり通る世界でしょう。

 …しかし、作者はそういう態度をとらず、猫を飼い続けます。これは明らかに、作者の論から言えば「抑圧され不当に扱われている動物を、それと認めつつ飼い続けて」いる偽善的行為です。この偽善的行為をやめるには、ただ飼わなければ良いだけなのにもかかわらず、です。

 さて、「罪悪感」を軽減しつつ「猫の苦痛を抑える」義務を課される人間側にとって、何が一番有効な方法なのでしょうか。

 安全に避妊手術を施すことでしょうか。子猫を崖から投げ捨てることでしょうか。

 冒頭の猫を川に流す話に戻りますが、その後母猫はどうしたかというと、吸われないお乳を一杯ためた乳房を腫らしつつ、子猫を一生懸命探します。時には二日も三日もうろつきます。ろくに餌を食べに帰っても来ません。

 やがて猫はまた子をはらみます。年に2,3回は子を作ります。

 そして、今度は見つからないようにしようというのか、場所を変え、隠れて産み、見つかり、子はまた流されます。

 今思えば、そのとき手術をさせてやった方がどんなにか楽ではないかと思えます。

 あの筆者は、それをどう思うのでしょうか。大変疑問に思えます。

 (長くなったので、続きは後日。動物虐待を視野に入れます)

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