2017-10

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子猫を殺すことへの考え その3

  このエントリは子猫を殺すことへの考え その1 および その2 の続きです。

 前々回と前回を通じ、「猫と人間の関係は社会的要請で決まる」と言ってきました。その社会的要請が人間側に「義務」を産み、猫側に「権利」を産むと考えました。そして、その権利は社会的要請によって「限定された権利」であるが、しかしその限定された範囲内では「守らなくてはならない義務」であると言うことを書きました。

 その点からいけば、作者の行動は「動物虐待に当たる」とするのが私の考えです。「猫の権利」を不当に奪っていると考えるからです。

(ただし。ここで言う「猫の権利」というのは、繰り返しますが「人間と猫との共生に必要な社会的要請」ということに限定して、考え方の補助として「権利」という言葉を使っているだけです)

 さて、問題は社会的要請というものが果たして明確に決められているのかどうかです。

 ひとつには歴史的背景があります。一番最初に書いたように、日本でも数十年前までは必要に迫られてということもあり子猫殺しが行われていました。

 しかし、現在では子供を産ませない処置(避妊手術)が発達し行き渡っているようですので、必要に迫られて子猫を殺すということは起きにくくなっています。

 そのほか、動物愛護思想が発達し、「動物に不必要な苦痛を与えてはならない」という考え方も普及してきています。

 そういう社会であれば、子猫殺しは「猫に苦痛を与える」として、行ってはならない行為として認められると言えるでしょう。その「苦痛」が具体的に何であるかは、猫でない人間に分かるものではありませんが、苦悩、苦痛をある程度想定することが出来ます。そして私たちは「罪悪感」を持つからこそ想定できる(時代の変遷はあるにせよ)のです。

 ついでですがこの感覚はいわゆる「共感」で、この感覚が発達していない子供により動物虐待が誘発されると言う指摘もあります(前掲の「動物虐待の心理学 子どもが動物をいじめるとき」)。

 社会的要素についてもう一つ示します。

 その国、地域で発達してきた考え方をもとにして、社会的要素を考えるのが非常に重要だと思えます。なぜなら、同じ猫にしても「三味線の皮」に使われているのは「文化」ですし、犬で言えばそれを「食べる」のも文化。その国固有の歴史の中で育まれてきた要素です。

 ですから、私は「三味線の皮に猫を使うのは許せない」とは言いませんし、「犬を食べる国」に対して「それは犬の権利に反することだからやめろ」とは言えません。逆に(飛躍しますが)鯨を食べるのが悪いことだとはちっとも思っていません。絶滅する危機があれば中止もやむを得ないでしょうが、決して「鯨の権利」など持ち出しません。

 この日本であれば、法律で次のように決められています。

「動物の愛護及び管理に関する法律」
第2条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。


 これは遵守されるべきでしょう。

 その点で、作者は間違った行動をしていると見なすことが出来ます。

 そういう人物が近くにいてほしいとは思いませんし、もしいた場合はそういう行為をやめさせなければならないと、私は考えています。そのために、今まで書いてきたような考え方が必要だと思っています。

 最後にメディアとの関連も少し書いておきます。

 あの文章を読んだ私個人の感想は「タヒチあたりで自然呆けしたおばさんが好き勝手なことやっておるなぁ」なのですが、その文章をそのまま載せたメディアは非常に卑怯な態度だと思います。

 ああいう文書をほとんど無批判で載せているとするなら、そのメディアは今後、動物虐待に関連した報道に対する姿勢を問われるでしょう。

 たとえば(「クローズアップ現代」で放送されましたが)最近の愛玩犬繁殖において極度の近親交配が行われ、その結果致死的なものを含め重度の畸形が沢山生まれるという事実。そしてその畸形を廃棄(殺処分)している事実。その背景には私たち人間の「好み」により、珍しい毛色が珍重されるという需要がある事実。

 掲載したメディアは:
 日経社長室は「原稿の内容は、筆者の自主性を尊重している。今回の原稿も事前に担当者が筆者に内容を確認した上で掲載した。さまざまなご意見は真摯(しんし)に受け止めたい」と説明している。
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2359247/detail?rd


 ほうほう。

 では今後、仮に「ある繁殖業者の手記 近親交配も畸形も殺処分も、自分が納得して行っているし、社会がそれを望んでいるから正しいのだ」という手記が寄せられたら、業者の自主性を重んじて堂々と載せていただきたいものです。叩かれまくるでしょうけど。

 最後にちょっと一言。

 避妊処置を「断種」と呼ぶ向きもありますが、これには同意できません。「癩病患者」に対する「断種」、「精神疾患患者」に対する「断種」は(医学の未発達による偏見・無知とか社会ダーウィニズムが引き起こした)忌まわしき愚行であると思います。現在の動物への処置と同列に語ることは出来ないものであろうと思います。

 この項 終わり

● COMMENT FORM ●

子猫殺しと「きっこのブログ」
http://kanosan.exblog.jp/4069748
上のエントリーで納得してしまうのです。
straymindさんの坂東氏の連続エッセイ7回目への「反論」ではなく、「猫の不可逆的な避妊手術」と「猫殺し」について書いてほしい。
坂東さんの当該エッセイを論破しても、その問題については答えていないように思える。
お祖父様が流れていく猫たちに「拝んではいけない」と言われたのは、「まだ目を開けていないもの」は「この世の命」ではない、ということなのでしょうか?

Mc.KE39Iさん、ようこそ。

 拝んではいけないという言い方の背景にあるのは、生まれたての猫を川に流す行為への罪悪感だと思います。つまり、「この世の命である。生を受けたのにこちらの都合で殺して申し訳ない」という感情ではないかと思います。

 ご紹介いただいたエントリを拝見しました。大筋同意です。ただし、「現時点では生まれた猫を殺すことよりも避妊手術の方が社会的同意を得やすい」ということから、(同じ罪悪感を持つにしても)よりベターな方法だと思います。これはどちらの行為が良い悪いではなく、そのとき、その場所で選択しうる方法のうち、どちらがより納得できるかという判断だけだと思います。

 ですから、今も猫を川に流す人を(その歴史的背景を考慮せずに)一方的に断罪することは反対です。しかし、今の私たちがとりうる方法としてよりベターな方法があるとするなら、それを行っていただけるように対話をしていくという態度は必要だと持っています。

 その意味で、一般化して一方的に「きちがい」と呼ぶのは間違いだと思いますし、私個人の印象では「きちがい」と呼ぶ方も同様にキチガイであると言う印象です。

 坂東氏のエッセイについては、「猫の不可逆的な避妊手術」と「猫殺し」という点での一般化はむずかしいと思っています。坂東氏の心の問題であろうかと思います。ご指摘の点について、その心の問題と私たちの社会への関わりという点で新たにエントリをしようと思います。テーマは「呪詛」です。

 このようなお答えでよろしいでしょうか。

 追記: 不可逆的避妊と猫殺し をエントリしました。


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