2017-09

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子猫殺し 坂東氏の狂気

 おそらくは政治的判断もあるのだろうとは思いますが、坂東氏のエッセイを巡って当地の政府が告発を検討している模様。

 それはそれとして、毎日新聞に坂東氏から寄稿された文章を見ました。(最後尾に引用掲載)

 ふたつほどポイントがあると思えます。一つは毎日新聞の視点、もう一つは坂東氏本人の考え。以下、これらを考えてみます。

 まず、記者の考えを引用:

動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。【鳴海崇】


 この鳴海なる記者の考え方がそもそも勘違いだと思われます。事の発端となった坂東氏のエッセイが彼女自身の心の病理を著しているという指摘と彼女の考え方を社会の病理・animal careに対する私たちの心のゆがみとして同一視しているのです。

 これは全くの間違い。私が思うに、坂東氏は坂東氏として、考え方が病んでいる。この件に関しては後述しますが、坂東氏がバランスを崩した考えを持ち、その結果として子猫を殺すのであるから、それは間違いであると指摘し、行為をやめさせ、なおかつ坂東氏の心の闇に立ち入っていかなければならないのです。このため、坂東氏は動物虐待行為者として法的に裁かれねばならないと思います。その、個人的病的行為と私たちの社会が抱える構造的問題を一緒くたにすれば、「社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない」という、少数弱者の権利尊重みたいなくだらない論理になるのです。

 鳴海なる記者は、坂東氏の心の問題には全く関心が無く(もしくはそれを直視する能力が無く)、社会の問題としてテンプレート的にことのうわべをなでただけの意見を述べているにすぎないと思えます。だから、坂東氏が今回寄稿した文の最後に出てくる「言論弾圧」という言葉に寄り添って考えてしまうのです。

 少数の意見を尊重しろと言いつつ、大多数側が大多数であるが故に間違ったものを間違っていると指摘できないのなら、それこそが弱者神聖視の言論弾圧でしょう。

 さて、それらはまぁどうでも良いことかもしれないですからこの辺にして、坂東氏の言葉に迫ってみたいと思います。

 もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。
 坂東氏



 バカですか?

 動物と人間の尊厳を同一視してしまっている。極端に言えば「人権」と動物の持つ生存本能を同一視している。

ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。
坂東氏



 これらは「国家が国民の基本的生存権を侵害して不当に権利を奪った行為」ですから、指弾されてしかるべきです。しかし、この理論を動物にまで広げるのは極論なのです。坂東氏は苦し紛れにこんな表現をしたのではないかと思えますが、何でも「人権」と言えばいいというような忌まわしい考え方が見え隠れしています。しかも、ここで言う人権はいわゆる「クソ人権」で、呉智英氏言うところの「人権真理教的人権」の意味合いを持つものと考えて良いような制限のないものが相当します。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。
坂東氏



 ああぁ。この一文をもって、坂東氏の思想・思考の底の浅さが伺われてしまいます。

 逆なのです。私たちはそういった愚昧な断種法、優生思想の元となるダーウィニズム的人類進化主義・進歩主義的歴史観の愚かしさから何を学んだのでしょう。それを一つも分からず、このように平然と「人類の忌まわしき愚行」と「共生のために痛みを感じつつ伴侶動物の生に干渉する」ことの違いを無視して語ることが出来る坂東氏の心性に大きな疑問を感じます。

 反対に、このように同一視する思考にこそ危機感を覚えます。

 坂東氏のエッセイを批判した人の中には、たしかにそういう意味で(ただ感情に動かされて)一方的な価値観のもと坂東氏を批判した未熟な人もいるかもしれません。しかし、動物に対する避妊を手放しで受け入れている人の方が少ないでしょう。ブログでの議論を見ている限り、多くの人が悩み、その上で手術を決断している様子がうかがえる。

 そういう点からも、つまり断種法などを引き合いに出した時点ですでに坂東氏のエッセイは「社会に一石を投じる」価値が全くなくなっています。

 坂東氏の個人的病理とは何であろうか。その問いが、私の問いでした。最初は「病理としての動物愛護をえぐり出す目的」があるように見えたのですが、それは間違いであると考え直しました。

 では、何であるのか?

 今は「供犠」であろうと考えています。つまり、生け贄。猫は、そして子猫は、坂東氏信ずるところの「けもの本来の性」と「ペットとして不本意に飼われる呪われた生」の狭間に位置するものなのです。

 親猫は「本来の性」をまっとうするべき存在。そして、その結果として生まれる子猫は「ゆがんだ世界に産み落とされた呪われた運命の子」。それであるが故に、子猫は産み落とされてすぐ、崖下に投げ落とされなくてはならないのです。

 それは「不妊手術」であってはいけないのです。

 この部分が核心であろうと思います:

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。
坂東氏


 彼女は「陰嚢と子宮」に、つまりセックスに、生殖に、異常な執着をもっているのです。それは、「彼女自身の執着」です。

 おわかりでしょうか。坂東氏は、彼女自身が持つ「セックス・生殖」への執着の身代わりとして親猫を見、その「性と生」をまっとうさせたいと願い、その結果生まれてくる子猫をその執着の捨て場としての崖下へ投げ落とさざるを得ないのです。

 異常である、と思えます。狂っている。

 しかし、そういう狂気はまた、私たち1人1人の中にも、潜むものでしょう。形を変え、姿を移ろわせつつ、私たちにまとわりつく闇でしょう。

 私は、その闇を否定しません。

 しかし、だから、子猫を殺して良いのか?

 自分の心に潜む闇を、猫を飼い、子を殺し続けることで埋めて良いのか?

 結局、坂東氏は自らの狂気をはらんだエゴのために子猫を殺し続けているのです。それが正しいこととは言えない。そしてまた、それが間違っていると言えないことも正しいことではない。

 だから、私は坂東氏の行為は間違いだと言い続けたいのです。

 追記。

 阿呆な記者の解説など気にせず坂東氏の今回の文章を読んでみてください。

 坂東氏は述べています:

 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。



 自ら恣意的に子猫を殺しておき、それをエッセイの形で公表したプロの物書きであるなら、「事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる」と書いていることを、恥じるべきでしょう。プロであるなら、言葉を尽くして語り、反論には言論で応えていくのが筋でしょう。それを放棄したのは、おそらく作家生命の終焉を告げるものとなります。

 もっとも、「言いたいことを言って批判されるのは言論弾圧だ!」と叫ぶ左巻き思考の持ち主であると宣言するなら別ですが。

 作家である彼女の口から「言論弾圧」なる重い言葉が出たことは、おそらく今後議論を呼ぶことでしょう。そして、それを(わかったようなことを中途半端に解説して)ほぼ無批判に載せた毎日新聞の報道姿勢も批判されるでしょう。

 追記2。

 まさか事実関係を調べたら「みんなウソでした。てへ。」なんてことにならないだろうなぁ。

*******************************

子猫殺し:告白の坂東眞砂子さんを告発の動き??タヒチ管轄政府「虐待にあたる」

 直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。20日から26日は、動物愛護週間。坂東さんが、真意を語りたいと毎日新聞に寄稿した。

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 ■解説

 ◇動物の生と死、多角的議論を

 坂東さんは「子猫殺し」を発表することで、愛猫に抱く葛藤(かっとう)を伝えるとともに、過剰なペット依存社会に一石を投じ、動物の生と死について再考を促そうとした。しかし現状では、多角的で本質に迫る議論には発展していない。

 「雌猫3匹が産む猫を、がけから放り投げている」。この強い表現は、猫への愛情と罪悪感が希薄な印象で、読む側の不快感につながった。言葉を扱うプロだからこそ、意図を正確に届ける工夫がもっとほしかった。

 また、猫への避妊手術は、坂東さんの挙げる野良猫対策とは異なる側面もある。野良猫の7割以上がウイルスを持っているといわれる猫エイズの予防だ。治療法は確立されていないが、体液の接触感染が主な原因で、不妊・去勢手術を施してけんかや交尾の機会を減らせば防ぎやすくなる。

 現代社会の猫や犬は、単なるペットではなく、人生の伴りょとして扱われる。坂東さんに賛同する人は少ないだろう。ただ、私たちが「動物にとっての本当の幸せ」を知るすべはない。動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。【鳴海崇】

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 ◆坂東眞砂子さん寄稿

 ◇子猫を殺す時、自分も殺している

 私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。

 さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。

 しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。

 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。

 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。

 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。

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 ■ことば

 ◇子猫殺し

 坂東さんが日経新聞8月18日夕刊でエッセー「子猫殺し」を掲載。飼っている雌猫に避妊手術をせず、子猫が生まれるとがけ下に投げていることを明らかにした。日経にはメールと電話で延べ1497件(今月19日現在)の意見が寄せられた。「残酷で不快」「動物愛護の精神に反する」「生命を軽視している」「避妊手術と、子猫を殺すことを同列に論じるのはおかしい」など、大多数が批判。少数だが「これからも生と死について書き続けて」との賛意もあった。

毎日新聞 2006年9月22日 東京夕刊

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