2017-04

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

偏見と理性と感性

 誰もが思っていたことを口にできる良い時代が来ているのだなぁと感じます。


 安倍晋三首相は22日午前の参院教育基本法特別委員会で、学校の卒業式などでの国旗掲揚と国歌斉唱について、「自国の国旗国歌への敬意、尊重の気持ちを涵養(かんよう)することは極めて大事」と述べ、「政治的闘争の一環として国旗の掲揚や国歌の斉唱が行われないことは問題」との考えを強調した。

時事ドットコム
2006/11/22-12:17 安倍首相「国旗国歌への敬意重要」=教基法改正案、参院で実質審議入り より引用



 敬意、尊重の気持ちというのは、理性ではないですね。どちらかというと良い意味での「偏見」(偏見って悪いもんじゃねぇの?と思った人、残念。良い偏見もあるんです)。こういった気持ちをイクナイとする人たちは、理性が勝っています。ですから、国家・国旗に対する敬意とか尊重とかいうと「お前、それは間違っているよ」と突っ込むわけです。理性的じゃないとしてね。

 でも、人間、理性だけで生きているわけじゃない。感情があり、偏見を持ち、不可思議な領域を信じたがる不合理な生き物なわけです。国、国家、故郷といったものに対し、不合理だけれども自分の生まれ育った場所として愛着を持つわけです。その象徴として存在する「国旗」とか「国家」って、どこの国に行ってもそうでしょうけど、愛着の対象なんですよ。それが真っ当な意味での「愛国心」ではないでしょうか。

 その対象・象徴を否定するってぇことは、実は国家を否定するというより人間のそういった感情や不合理さを否定するんです。つまり「理性が一番。理性がすべてを解決していく」という立場ですね。

 これ、チェスタトンのいう「全世界を頭の中に押し込める」行為です。逆の人は「世界の中に身をおく」のです。漂うというか。だから謙虚になれる。自分の周りにある無限の宇宙を認めるのですから、人智の及ばないものに対して「こりゃぁカナワンナァ」という感覚、畏怖の念を持てるんですね。

 だから、この国で国旗・国家を否定して卒業式で騒ぐような人たちって、傲慢ですよ。口では平和とか反戦を唱えてますが(そりゃもっともだってところなんですけど、どうしてもその背景に理詰めのイデオロギーによるプロパガンダを感じるんですよ)、心底傲慢です。だって、自分の考えつまり理性から導き出された論理に反するとなると子供がどう感じようがお構いなしに抗議しますから。冒頭の引用文ですと「政治的闘争の一環」というやつですね。

 子供を政争の具に使うな。と。

 このあたり、チェスタトンの著書を読むとすっきりします。なぜ「彼ら」はああも不寛容なのだろう? とか、なんでああも傲慢ですの? とか疑問に思っていたことの多くが解決します。
 
 ただね、「国旗国家反対なり!」って人にも何か理があるということを書かなくてはならないですね。

 そういう人たちは、確かに「頭で多くのことを考えています」から、その点は立派です。反駁しようのない理論を持っています。その点では「自分を信じている人」ですよね。

 でも、実はそれが危ないんです。

 なぜ危ないかは「正統とは何か」第二章「気ちがい病院からの出発」を読むとよくわかります。

 著者いわく、自分を信じ、自分の理性を信じて疑わない挙句、自分はキリストであるとか、世界中が自分に対して陰謀をめぐらせていると確信している人がそういう病院の塀の中にいるんですって。

 つづきはまた。

● COMMENT FORM ●

Re: 偏見と理性と感性

 愛国心教育や国旗国歌の学校行事での掲揚・斉唱に反対している人は、愛国心を持ったり国旗国歌に敬意を表することまで否定してはいないように思います。愛国心のありようは一様ではなく人によって異なるもののはずですが、国歌が愛国心教育を強制すれば愛国心の有り様を画一的に押しつけることになるため国家による愛国心教育に反対しているのだと思います。国旗国歌についても同じことで、国民の愛国心のありようが国旗国歌というルートを通らなければならない必然性はありません。
 国民一人一人の愛国心のあり方は尊重されるべきですし、だからこそ画一的な愛国心のあり方の強制は問題だと思うのです。昨今の国旗国歌の文脈で言えば、押しつけているのは国や教育委員会の方であり、不寛容なのは彼らの方だと思うのですが、あなたの主張によれば押しつけに反対することが不寛容ということになるのでしょうか。
 感情や不合理さを肯定しながら自分と異なる感情や不合理さを心底傲慢だと切り捨ててしまっているあなたの主張も十分傲慢に見えるのですが。

Re: 偏見と理性と感性

seiryu95さん、こんにちは。

>愛国心のありようは一様ではなく人によって異なるもののはずです

 個人が持つ国に対する忠誠心、天皇に対する崇敬の念などでの細かな「ありよう」は異なるかも知れませんが、その象徴となるものはそれらを包括して現したものであるゆえ象徴たり得ると思います。ですから、その象徴を否定する「ありよう」は、象徴を是とする人たちとは絶対に相容れません。これをも人によって異なるものとするなら、象徴は意味を成さず、ひいては国家も意味を成しません。ですから:

>国民の愛国心のありようが国旗国歌というルートを通らなければならない必然性はありません。

 必然性はあると思います。

>国民一人一人の愛国心のあり方は尊重されるべきですし、だからこそ画一的な愛国心のあり方の強制は問題だと思うのです。

 「国民一人一人の愛国心のあり方」は、個人の考え方のあらゆる方向を含むものではありません。ある象徴を肯定する範囲内で許容されるものだと思います。その「肯定する範囲内」を「画一的」とするなら、そもそも議論は成り立ちません。肯定か否定かという対立になるだけです。

 ある象徴の淵源が何であるのかは、エントリの中に書きましたが、ひとつには愛着であると思います。これを国民が共有し、それを法制化していくのは、国家としては当然のことだと思いますし、それが「強制」となる思考は、(穏やかな言葉遣いをするなら)不寛容であると言って良いのではないでしょうか。

 問題は法制化後の国家権力が及ぼすであろう個人への圧力から国民一人ひとりをいかにして守るか、という点ですが、これは別の問題なのでここでは触れません。

>感情や不合理さを肯定しながら自分と異なる感情や不合理さを心底傲慢だと切り捨ててしまっているあなたの主張も十分傲慢に見えるのですが。

 これは水掛け論になるでしょう。ただ、エントリで書いたように、理性至上主義的イデオロギーは人間を水平化しそれに沿わない人々を圧殺するという意味できわめて傲慢です。それは歴史が教えてくれています。

Re: 偏見と理性と感性

 少々長文になりますがご容赦下さい。
>個人が持つ国に対する忠誠心、天皇に対する崇敬の念などでの細かな「ありよう」は異なるかも知れませんが、その象徴となるものはそれらを包括して現したものであるゆえ象徴たり得ると思います。ですから、その象徴を否定する「ありよう」は、象徴を是とする人たちとは絶対に相容れません。これをも人によって異なるものとするなら、象徴は意味を成さず、ひいては国家も意味を成しません。ですから:

 日本国において象徴とされている、天皇・日の丸・君が代は価値中立的なものではなく、特定の政治的立場を前提としています。愛国心のありようが異なっているのは決して細かな部分ではなく、愛国心が曖昧な概念であるがゆえに本質的な部分なのだと思います。例えば、私の「愛国心」の本質的な部分は日本国という一定領域内において居住者の人権を保障する憲法体制に対するものであり(憲法愛国主義)、憲法の基本理念である平等という理念を重視するがゆえに、結党を理由に特定の人間を尊いものとして扱う天皇を象徴とすることについて批判的であり、同様に天皇の世が続くことを歌い上げる「君が代」を国家とすることにも反対しているのです。つまり、私は「愛国的」であるがゆえに、天皇と君が代に反対しているのです。G.R.さんの視界にこのような本質的な違いが入ってこないのは、自分と異なる「愛国心」のあり方を最初から否定しているからではないでしょうか。
 また、このように、象徴の取り扱いについて意見が対立しても象徴を是とする人にとっては象徴の意味はなお存在していますし、対立があるから国家が意味をなさないと言うことも起こっていません。これはなぜかといえば象徴が国家意識の形成において果たす役割はG.R.さんが考えるほど大きくはなく、国家において統合の役割を果たすものはたくさんあるということではないかと思います。

>「国民一人一人の愛国心のあり方」は、個人の考え方のあらゆる方向を含むものではありません。ある象徴を肯定する範囲内で許容されるものだと思います。その「肯定する範囲内」を「画一的」とするなら、そもそも議論は成り立ちません。肯定か否定かという対立になるだけです。

 この部分が私とG.R.さんの一番大きな違いだと思います。
 私の見るところ、G.R.さんは象徴というものに過剰な意味を持たせすぎているように思います。象徴はあくまで抽象的・感覚的な事柄を具体的なもので表したものでしかありません。つまり表される国家や国民の統合という概念についての了解があるのであればそれが象徴を経由する必要はないのです。例えば鳩が平和の象徴だとしても鳩が嫌いであるがゆえにそれを象徴として扱わないことと、それでもなお平和という実質を追求することは何ら矛盾しないのです。日本国という国家においても、私は象徴についてG.R.さんと異なる見解を持っていますが、だからといってG.R.さんと同じ国家を運営していくことも、G.R.さんを同胞を捉えることにも何の支障もありません。

>ある象徴の淵源が何であるのかは、エントリの中に書きましたが、ひとつには愛着であると思います。これを国民が共有し、それを法制化していくのは、国家としては当然のことだと思いますし、それが「強制」となる思考は、(穏やかな言葉遣いをするなら)不寛容であると言って良いのではないでしょうか。

 国家がなすべきことは、国民が愛着をもてるような社会を作り上げていくことであって、そのような努力をとばして国民(特に子供に)国家への愛着を教え込もうというのは本末転倒だと思います。そして自分たちがそのような社会と作り上げていく過程こそが「愛国心」の本質だというのが私の考えです。
 また、愛着の対象となる「国」というものが極めて抽象的多義的な概念であることを忘れるべきではありません。多義的・抽象的であるがゆえにそれを国家が法律で押しつけるべきではないのです。G.R.さんがこれを「強制」と見ないのは自分と大きく異なる愛国心のあり方を、そんなものは愛国心でないと、最初から切り捨てているからのように思います。

>問題は法制化後の国家権力が及ぼすであろう個人への圧力から国民一人ひとりをいかにして守るか、という点ですが、これは別の問題なのでここでは触れません。

 これが別問題だとは私は思いません。東京都教育委員会のやっていることを見る限り、愛国心をどの様に法制化するかということとそれが国民への圧力になるかどうかはまさにストレートに結びついているからです。


>これは水掛け論になるでしょう。ただ、エントリで書いたように、理性至上主義的イデオロギーは人間を水平化しそれに沿わない人々を圧殺するという意味できわめて傲慢です。それは歴史が教えてくれています。

 愛国心の教育に反対する人が理性至上主義的イデオロギーを持っているというのは、G.R.さんの決めつけでしかないように思います。私とG.R.さんは愛着を持つ「国」の意味が異なっているだけで、その愛着の根底にあるのは非理性的なものである点では変わりありません。
 また、多様な愛国心のあり方を否定し、自分と異なる愛国心を排除していった国家が、どの様な末路をたどるのか、歴史は教えてくれているのでしょう。

Re: 偏見と理性と感性

seiryu95さん、こんにちは。

>私は象徴についてG.R.さんと異なる見解を持っていますが、だからといってG.R.さんと同じ国家を運営していくことも、G.R.さんを同胞を捉えることにも何の支障もありません。

 この点は私もまったく同感です。その上でお返事します。

> 日本国において象徴とされている、天皇・日の丸・君が代は価値中立的なものではなく、特定の政治的立場を前提としています。

 確かに皇国主義の旗頭として使われていた時代がありましたし、それは(国民を軍事に走らせたという意味で)間違っていると思います。しかし、だからといって天皇・日の丸・君が代を切り捨てるのは疑問です。

 今現在この国で暮らしている国民のうち「相当数の人々」の意見を反映しつつ、違いを吸収し、また、異なる考えを保護するという制度の下でなら、現行の「国旗・国歌」をみとめるのが自然の流れです。

 もともと歴史を有するこの国の「国民」が過去の遺制伝統を継承しつつ、誤りは誤りとして「改善する」という方向で考えるのが保守的思想であるとするなら、私はそれを支持しているものです。そして、国民一人ひとりの生活基盤となる慣習の継承や国家・天皇に対する崇敬の念の継承は遺制継承の具体的なものですが、それを象徴するのに今の国旗・国歌であってもなんら不都合はないと思えます。

 仰るように「愛国心のありよう」は人それぞれです。それも認めます。しかし、それが「私の愛国心はこれである」というふうに個人が思考し作り出すものまですべて受け入れるなら、「気ちがい(チェスタトンの表現)」の「愛国心」も受け入れられるでしょうか。私が言う「ある方向」は、過去を継承し、国を維持し、その上で未来を確保するということを前提にしていますから、過去を否定し、国を維持しようとせず、そのうえであるべき未来を否定する「愛国心」があるなら、断固反対する、というものです。

 愛国心は字義通り読めば「国を愛する心」というものですが、その「国」には国民も含まれるわけで、国民不在の「愛国心」が皇国主義であるとするなら、それは排除せねばなりません。また、国民の過去を否定し未来を奪うイデオロギーも否定されねばならないと思います。

> 国家がなすべきことは、国民が愛着をもてるような社会を作り上げていくことであって、そのような努力をとばして国民(特に子供に)国家への愛着を教え込もうというのは本末転倒だと思います。

 これは主語が国家であるなら、ある意味正しいと思いますが、間違ってもいると思えます。ナチスドイツとカギ十字を、かつてのドイツ国民は熱狂的に支持しました。ナチは当時のドイツ国民つまり民衆が選び出し、支持し、そしてその教育の結果親衛隊や若者のナチ組織ができ、あのような全体主義になったのではないでしょうか。

 「愛着を持てるような国家」というのは、「国」が作り上げるものではなく、祖先が暮らし、自分たちが暮らし、いずれ次の世代が暮らせるであろう「祖国」を愛する私たちが具現化し、維持していくものなのではないでしょうか。

 その祖国の伝統・良識・知識の継承に必要なのが公的教育であり、そこに今の国旗・国歌を象徴としてすえるばあい、私たちが警戒しなくてはならないのは、「国が作り上げる愛着を持てると思えるような国家像」そのものです。

 排日教育のような排外主義が愛国教育のブースターとなっている国を見ると、特にそういえるのではないでしょうか。

 ある一部教師の振る舞いから裁判となった事件などを見るにつけ、あの教師たちはおろかだと思います。ああいう行為は国民感情の保守化を助長するというよりも、偏狭な皇国主義者を喜ばせるだけです。ああいう行為はそれを生み出す思想を排除し右傾化させる絶好の口実を与えているのです。

 それを気づかずに子供を楯に取り自己のイデオロギーのみを振りかざすのは「自分の頭の中で世界を形作っている」幼児の傲慢さです。

>>問題は法制化後の国家権力が及ぼすであろう個人への圧力から国民一人ひとりをいかにして守るか、という点ですが、これは別の問題なのでここでは触れません。

> これが別問題だとは私は思いません。東京都教育委員会のやっていることを見る限り、愛国心をどの様に法制化するかということとそれが国民への圧力になるかどうかはまさにストレートに結びついているからです。

 私が考えるに、教育基本法改正の良いところは教育体制維持のための義務を地方や家庭にまで要求している点であると思います。これは逆に言うと地方や家庭に「教育にかかわる権限」を委譲していくと考えられるものです。

 そう考えると、国家権力から個人を守る小権力を国家と個人の間に立てる作業が可能です。そうする中で、一部教師のイデオロギー(個人をアトム化させリベラルで放縦な態度をとらせるイデオロギー)や、逆の立場での教育委員会の横暴(たしかに地方でも教育委員会は絶対的な組織ですし)を抑止できると思うのです。

 ですから、国家理念を支えるべく国旗・国歌を制定しできうる限り価値中立なものにさせる努力をし、教育基本法の理念をできる限り国民の手にゆだねるべきです。そしてそのゆだねられる国民は過去の歴史を尊重し、それを維持し、改善していくことでより良い未来を次世代に渡すという意味で、保守的であるほうが良いと思います。

 長々と書いてしまいましたが、これが、今、私の言えることです。

Re: 偏見と理性と感性

 コメントとしては長くなりましたので、TBさせていただきました。御意見・ご批判お待ちしています。


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://straymind.blog66.fc2.com/tb.php/37-4e156c58
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

straymind

Author:straymind

エントリ

カテゴリ

コメント

全記事表示

全ての記事を表示する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。