2017-04

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自縛と自由

 まずはチェスタトンのコラムから引用してみる。

 なぜか、「自由思想家」はまず自分の自由を売り払うことからはじめる。そして、そのかわりにゴッタ煮のような気のきいたものにありつけるわけではなくて、まさにゴッタゴタの混乱に陥る。自分の自由を売り払ってしまえば、あとに残るのはなんだかこんぐらかった理屈だったり、独りよがりの解釈だったり、独善、まやかし、はやりすたりのたぐいである。

 自由思想の自縛 p24より

G.K.チェスタトン 「求む、有能でないひと」 安部 薫 訳 国書刊行会


 このブログでも何度か言及してきたが、「自由」の履き違えがこういう結果を招く。そして「自由主義者」は「自由の履き違えをしても自由じゃないか」という自由を自由と考える点で自分を自由と思い込み泥沼にはまると言うことを知らない。

 この世界は「自由主義者」が闊歩できる世界でもある。自由主義者は居場所にたどり着くや独自の理論を自分の周りにこしらえ始める。それが自由であり、自分の自由を守るものだと信じている。

 それが実は自分が張り巡らせた蜘蛛の巣であり、自由主義者はその蜘蛛の糸に見入って「なんてうつくしいんだろう」と悦に入る。そしてその蜘蛛の巣を作る蜘蛛はまた蝿でもある。蜘蛛であり蝿であるそのものは自分の羽で自分の巣の周りを飛び回り、そして自分の蜘蛛の巣に絡めとられる。

 そして自分で絡めとられつつ自由を叫ぶ。

 その蜘蛛の巣を払うものはいないのか。

 チェスタトンは言う。

 唯一正統の権威だけが、次から次へと現れては人を呪縛にかけるワナを敏感に察知して、自由を救いうる守り神である。
 自由思想の自縛 p26



 そう。多くの者が訳知り顔で笑い飛ばす「正統」であり「権威」と呼ばれるものこそが、自由を守る。

 問題は、その「正統」と「権威」が何であるか。

 これを理解しない限り、自由は蜘蛛の巣となる。

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