2017-05

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偏見と理性の再考

 これは青龍さまのエントリ 「伝統」のイデオロギー性4 へのお返事です。
引用の順番が前後しますが、論旨によるものです。ご容赦ください。

 まず、私の問いかけに対してお答えいただき、ありがとうございました。

 理由はシンプルです。私は「人は生まれによる貴賤はなく、その人のなしたことだけがその人を評価する基準になる」という価値観を有しています。他方、天皇制は戦後の象徴天皇制も含めて、天皇家に生を受けたということだけを理由に他の国民と異なった取り扱いをしています。このような価値観は私の価値観と相容れないものですから、そのような制度を公的なものとして取り扱うことに反対です(当人が納得している分には私的なものとして取り扱うことには異論はありません)。従って、君が代という天皇の長寿を願う歌(君が代の「君」が天皇を表すというのは国旗国歌法制定時の政府の公式見解でした)を歌う気にもなりません。それは私の価値観に抵触するからです。


 青龍さまのお考えは良くわかりました。かといって、そのことに同意するかどうかはまた別問題となりますが。

 私が判らないと言ったのは、去年のある事件に関して、もちろん青龍さまとは関係ない話なのですが、同じように天皇制を否定する輩がいるため、今現在のこの話と整合性をつけたかったからです。

週間金曜日のお粗末劇

 こういう唾棄すべき輩の行動に、非常な疑問を持っています。この件に関する私なりの考えは次のエントリで示しました。

皇室中傷劇 解題

 上記エントリでも述べていますが、彼らは「人権」を盛んに強調します。しかし、こと天皇のこととなると、平気で「人権」を踏み越えた行為を行います。天皇とて、その行為やお立場に法的制約はあるにせよ、ひとつの人権を持つお方ではありませんか。皇室ご一家とて同じではありませんか。それが、これだけの中傷行為を平然と行うのなら、彼らの言う人権とは何であるのか、という点で批判をしています。

 青龍さまはみなひとしなみに平等であるという考えをお持ちですから、その点では彼らとの相違が明らかになりました。 

 また国旗国歌については前回述べたことの繰り返しになりますが、イデオロギー性を意識しないことはイデオロギー性がないことにはならないという点に尽きます。G.R.さんのレトリックは、国民の多くが初詣の宗教性を意識していなければ、初詣が宗教行為ではないことになるといっているのと同様に論理の飛躍があります。


 国政と宗教が統合されている場合はそういえるかもしれません。しかし、前者は国民の付託を受けた統治機構であるのに対し、後者は個人の信仰であり、青龍さまが仰るような並列の議論はできません。もちろん、国が特定の宗教を個人に強制するということは、さまざまな問題があるでしょう。これは非常に微妙な問題を含んでいると思います。しかし、国民の付託を受けた政府があり、その政府を有する国が象徴として今の国旗・国歌を定めることが、そのままそういった議論になることも難しいのではないでしょうか。

 天皇は(過去の歴史はどうあれ)現在は象徴としての存在であり、私としてはその象徴としての天皇を否定するべき理由がありません。これを「無自覚」であると指摘しておられるのでしょうが、自覚的に象徴と認めるということ自体すべて否定されなくてはならないことなのでしょうか。


 ここでも、理性に対する言いがかりに近い非難がなされていませんか。特にG.R.さんの定義する「伝統」がまさに合理主義の帰結であることを考え合わせれば、G.R.さんの理性批判はまさに自己撞着に陥っているといえます。


 ここは青龍さまの理解と全く違います。

 保守主義では、国を統治するのおいて個人の理性、個人の考えはとてもか細いもの、射程距離の短いものである、という認識を持つと思います。しかし、それは個人の理性そのものを否定しているわけでは有りません。国という存在があり、過去から現在へ連綿と続いている歴史のなかで培われたわれわれの祖先が残した知恵は、私たち一人ひとりが一代限りで考えうる理性による思惟よりはるかに大きいと考えます。

 一方社会主義に代表される思想は、当代の人間が考えて作り上げた社会設計のもとに運営されるものであり、その背景には人間の理性への無限の信頼が前提されています。この点が危ういものであるという考えが、保守の思想にはあると思います。

 国というものを考える点で、私と青龍さまは、その点で根本的に思想が違っていると言えます。これは個人レベルではどちらが良い悪いと決着できるものではないと考えます。

 また、理性至上主義(こんなものが本当に存在するのか疑問ですが)に社会主義の失敗の責を全面的に押し付けるのも論理の飛躍があります。この論法を使うのなら、「伝統」に執着した大日本帝国の失敗は一体何にその責任を押し付けるのですか?


 社会主義の失敗は人間がその限られた理性(理性信仰といっても良いでしょうが)により作り上げた計画経済の失敗そのものでしょう。また、社会主義国に蔓延した政治的腐敗が一因でしょう。社会主義国が収容所群島などと呼ばれた時代です。
 一方の大日本帝国の失敗は、世界の趨勢がそうであった時代に、各国列強と肩を並べるため帝国主義を行い、その結果軍部の独走を許し彼らの戦術的思慮のなさから来た無謀な政治戦略の帰結だと思えます。実際に第二次世界大戦においても上層部は独走しましたし、軍内部にはその戦略性の無さを嘆く声も多かったのではないでしょうか。

 「伝統」を「社会を維持する知恵」と定義するのであれば、それはまさに合理主義ではないですか。すなわち、この場合の「伝統」は、過去にその「伝統」に従うことによって社会が維持されてきたから現在においてもその「伝統」に従うことによって社会がよりよく維持できるだろうという推論がその正当性を支えることになります。


 この点は保守主義の考え方からすれば、青龍さまの認識が私と違うとしかいえないかもしれません。

 G.R.さんの言う保守主義も「伝統」を無条件に維持しようとするものではないでしょう。「劇的な改変をなるべくしないように考える」ということは裏を返せば、劇的でない改変を否定するものでもないし、劇的な改変であっても必要性があれば認めるということです。


 これは、まだ考え方に相違があります。日本ではなく世界に目を向けてみると、保守主義は伝統を伴う「国体をそのまま維持」しようという思想です。一方、社会主義はその伝統を伴う「国体を完全に否定」するところが出発点となるイデオロギーであろうと思います。

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