2017-09

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与えられし、ちから

このエントリは西からの声を参照しています。



ギフト (西のはての年代記 (1))で語られるのは、「ちから」です。そのちからは自らの意志で発動するもので、おおかたは破壊的な影響を及ぼします。人をねじ曲げ、肉塊にし、病気にさせます。なかには時間を少しだけ戻す、というようなものもありますが、その世界の一般的な理解では、ちからすなわちギフトは、人を恐れさせるものとして語られます。

ギフトがなぜあるのか、それは明らかにされません。しかし、血縁により継がれていくものであり、濃い血は強いギフトを与える傾向にあるとされています。そのため、一族は、血縁を中心に形作られます。そしてそのなかで最も強いギフトを得たものが、一族の長(おさ)となります。長はその力を背景に、一族を統率し、他の一族の干渉から己の一族を守るように運命づけられます。

このため、かれらつまりギフトを継ぐ者たちは、悲劇的な運命に置かれるのです。一族と一族のぶつかり合いは、ギフトの力比べであり、より破壊的なギフトを持つ一族が、貧しい高地の富を得るのです。これは破壊的な力を秘めるギフトの持つ呪詛であり、その呪詛から彼らは逃れられません。

主人公である少年の、父親。彼が強力なギフトの持ち主であり、それゆえ憔悴し崩壊していくのは、その呪詛を象徴しています。

物語の主人公は、目隠しをした状態で登場します。それは己の中にあるギフトを封じるためです。暴走するギフトに怯える少年。そして、一族の長である父親から受け継いだギフトが果たして「本当に」自分にもあるのかを疑いつつ成長する少年。この少年の存在が、重要なテーマを提示しています。

ギフトの持つ呪詛、そしてそれへの熱望と疑い。人間の内奥にある「思い」が、極めて否定的なものとして、描かれます。それが、ギフトのテーマです。つまり、己の持つ「ちから」への憧れと疑いが語られていきます。

少年は成長します。そして、第一巻は終わるのですが、結末は書かないほうがいいでしょう。

ヴォイス (西のはての年代記) (西のはての年代記 2)では、人間の内に秘めた力から、発せられる「声」に視点が移されます。そしてその背景に、「書物」があります。内なる生きた力である「ギフト」、統制され制御されて発せられる「声」、そしてそれを紙の上に固定した結果である「文字」へと、テーマは変わっていくのですが、それはパロールエクリチュールという対比を著者が意図したのかも知れません。しかし、第一巻で提示される「ギフト」は、そのどちらでもない原初的な作用物として表されます。

この原初的な力としてのギフトは、何を象徴しているのでしょうか。

☆☆

言葉という点に関して、考えてみます。すでにおわかりのように、言葉には「ちから」があります。それは、言葉を(それが音であれ文字であれ)発する者の「内」から立ち現れる「ちから」です。その「ちから」は、対象となる者(対話者、読者いずれであれ)に影響を与えます。こう考えると、ギフトが「言葉」の一面を表した隠喩であることも想像できます。

言葉という「ちから」は、様々な作用をします。人を癒し、救い、勇気づけることもあれば、人を傷つけ、壊し、殺すことも可能です。また、その言葉を用いる「能力」もしくは「スキル」は、人により様々なレベルがあります。文学者や扇動家のような専門的能力まで高められた言葉があります。一方で、なかなかうまく伝わらない言葉もあります。

言葉はすべて、発する人の内奥から立ち現れるものです。それが含み込む想いは様々であり、また、表現も様々です。ある人は直接的な単発の表現を用いるでしょう。またある人は時間をかけた対話という形で用いるでしょう。なかには物語のような手法を用いて内奥を表現する人もあるでしょう。それら全てが、自己の内奥を誰かに伝えようとする試みです。

言葉が「祝福」であるか「呪詛」であるか。それが、言葉を通して他の人と交流を「試みる」私たち全てにとって、とても重要なことであるのは間違いありません。

己の発する言葉が「ちから」を持つと気づいたときから、私たちは祝福と呪詛のはざまに投げ込まれます。

その力の象徴が、ギフトだと思えます。

この本の主人公は、その力を「制御」するために、目隠しをすることを選びます。それは、自分の発する「ことば」が呪詛に満ちていると気づいたとき、口をつぐむのと同じかも知れません。

少年は内省し、自己の中にある「ちから」について考えます。それは、暴走すれば間違いなく人を傷つける「ちから」です。

☆☆☆

言葉により人を傷つけ、傷つけられる。そのさなかにいるとき、私たちは、自分の持つ「ちから」に怯えます。そして、もう誰も傷つけないようにと、口をつぐむかも知れません。少年が、自らを封じるために目隠しをしたように。

ここで、本書第一巻の最も重要なテーマが現れます。「ちから」とはなにか。

それは、その「ちから」に、私たち自身がどのような意味づけをするかにかかってくるように思えます。祝福か呪詛か。そしてまた、それが相手にとって祝福か呪詛か。そこから返ってくる反応は祝福か呪詛か。そしてその反応から…。

第一巻で描かれる土地は、ギフトという「ちから」によって形作られた「祝福」と「呪詛」の輻輳する土地です。人びとはそこから出て行こうとしません。その土地にしがみつき、ギフトの持つ祝福と呪詛に絡め取られたまま、不可解な運命の旅を続けます。

ル=グィンが描こうとしたことは、そのギフトを巡る呪詛の輻輳と、そこから逃れ出る「ちから」を持った存在だと思えます。ただ単に逃げ出すのではなく、どうすれば、進んでそこを出て行くことが出来るのか。

それは、私たちが経験する、言葉(ちから)による「祝福」と「呪詛」のファンタジーでしょう。

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