2017-08

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訴訟で医療の質が上がる、だと?

 こういうのを能天気というのか。いや、悪しきマスメディアの洗脳事例というのか。

 立命館大学教授佐和隆光氏――医師免許に更新制要らぬ(インタビュー領空侵犯)
2006/ 12/ 25日本経済新聞 朝刊p.7


ネットにはソースなし

 ようするに、医療においては情報の不均衡が存在し、患者側は医師の優劣など知りようがない。その状況下でどうすればいいのかという話。インタビューを受けたのは佐和隆光氏。

 中国では病院の診療科に属する医師の名前リストがあって、診察料などはその医師の評判・実力によって違っている。つまりは能力のお品書きがあるというのだ。

 で、日本ではそういうわけには行かない(自由診療ならともかく、現行の保険制度では均一料金になる)から、医師の優劣を決めようがないと。

 であるから、今後弁護士が増えて医療訴訟が増えていけば、医師側も自分の腕を磨くようになり、ミスをしにくくなり、技能の劣る失敗の多い医師は淘汰されていく、と。こういうことを言っている。

 おじさんだいじょうぶか? と思える内容であるなぁ。

 これでは「訴訟リスクの高い患者」を喜ばせるだけではないか。その結果として起こるのは防衛医療(訴訟回避のための過剰かつ無難にやり過ごす医療)であり、隠蔽の常態化(カルテ改竄、証拠隠滅)であり、疑心暗鬼による意思疎通の不具合であり、弁護士の訴訟営業であり、訴訟に備えての保険の診療費上乗せであり、ああ、これは今までのアメリカ型医療ではないか。まぁ、そのアメリカでもいまでは「とにかく謝っちまえ」型の対処が有効といわれて来ているが。

 そうでなくとも今の日本では情報があふれかえることで混乱がおき、医療への「気分的な」不信感をあおるマスメディアが「赤ひげ先生」を血眼で捜し、産科・小児科をはじめとした最前線の医療従事者が「こんなきつくて訴訟リスクの高い仕事やってられんわい」と辞めていき、妊婦は生み場所を捜し求め、子供は熱を出して親は救急病院を探し回り、そんな状況をこれ以上悪くしてどうする?

 ちなみに、医療訴訟がどれだけ大変か、知っているだろうか。

医療事故ではないかと思ったら

↑でもみて目を覚ましたらどうか。いくら弁護士が増えて訴訟を起こしやすくなったとしても、訴訟の手間と手間賃は変わらない

 「ああ、これで訴訟を起こしやすくなるわ♪」と喜んだ奥さん、残念。 <言い過ぎました。反省。

 ここでまたひとつ、弁護士のお品書きが必要となってくるのはそんなに想像力がなくても判る話。

医療は不確実なもので、絶対安全はない。そんななかでむやみに医療訴訟が増えれば、質を上げるより前に医師が萎縮し、なり手が減ってしまう恐れがある。国民のだれもが必要なときに十分な医療を受けられる体制を維持しながら、医療の質を上げていくのは簡単ではない。様々な意見を踏まえ徹底した議論が必要だ。(編集委員 山口聡)


 インタビュアーの言葉が救いとなった。確かにそのとおり。

鍵コメは嫌いだ。

 必要があるという点は認めます。しかし、たとえば一対一でコメント合戦していたりTB打ち合っていたりするとして、相手方にいくつか鍵コメが入り、その結果か何か知らないが突然相手の態度が変わる、ということは過去に何度も経験しました。

 国会中継で首相の答弁時に裏から役人が出てきてなにやらごにょごにょ。首相はにやりと笑ってうなずくや答弁席に立ち「さて、それについてですが…」とやり始めるような感じですかね。

 いわくこれを「入れ知恵」という。

 私は最近、あとにも先にも一回だけという考えであるところに鍵コメを入れましたが、今は結構後悔しています。こんなことなら何もしなければ良かったかなぁと思い始めています。あんな形でかかわるんじゃなかったというか。

 ネットでの言説はそこに書かれているテキストのみで考えるというスタンスを破った後悔を引きずりつつ、新しい年を迎える日。

 年を越しての追記。

 はてなブックマークで言及されているとおり、嫌いといっておきながら鍵コメにレスするのはやはりイタダケナイ。(できれば公開コメでお願いしたいよぉ、話を膨らませられないよぉ。という気持ちが強かったのでレスしたんですが)

 ということで、えっけんさんのところの議論を読んだりしたうえで、やはりいっそ無いほうが良いと判断し、今のテンプレから秘密コメント部分の記述を削除。今後も模様替えのつど秘密コメント機能を削除するつもり。

 さらに追記。

 コメント投稿の際の確認画面についてという管理側の発表を見るとスパム対策でコメント確認画面が出る仕様になったんですが、その時点で秘密コメントの選択が可能なんですね。つまりはテンプレを改造してもあんまり意味がないケースもあると。ま、いいや。今後秘密コメントには無反応ということで。

にせ科学への誘惑

 これは前から興味がある。

 うしとみしよぞ 視点・論点「まん延するニセ科学」

 が、今はスルー。

 いずれ書きたいと思っている。なぜならニセ科学はわたした(ry

 スルー。

自縛と自由

 まずはチェスタトンのコラムから引用してみる。

 なぜか、「自由思想家」はまず自分の自由を売り払うことからはじめる。そして、そのかわりにゴッタ煮のような気のきいたものにありつけるわけではなくて、まさにゴッタゴタの混乱に陥る。自分の自由を売り払ってしまえば、あとに残るのはなんだかこんぐらかった理屈だったり、独りよがりの解釈だったり、独善、まやかし、はやりすたりのたぐいである。

 自由思想の自縛 p24より

G.K.チェスタトン 「求む、有能でないひと」 安部 薫 訳 国書刊行会


 このブログでも何度か言及してきたが、「自由」の履き違えがこういう結果を招く。そして「自由主義者」は「自由の履き違えをしても自由じゃないか」という自由を自由と考える点で自分を自由と思い込み泥沼にはまると言うことを知らない。

 この世界は「自由主義者」が闊歩できる世界でもある。自由主義者は居場所にたどり着くや独自の理論を自分の周りにこしらえ始める。それが自由であり、自分の自由を守るものだと信じている。

 それが実は自分が張り巡らせた蜘蛛の巣であり、自由主義者はその蜘蛛の糸に見入って「なんてうつくしいんだろう」と悦に入る。そしてその蜘蛛の巣を作る蜘蛛はまた蝿でもある。蜘蛛であり蝿であるそのものは自分の羽で自分の巣の周りを飛び回り、そして自分の蜘蛛の巣に絡めとられる。

 そして自分で絡めとられつつ自由を叫ぶ。

 その蜘蛛の巣を払うものはいないのか。

 チェスタトンは言う。

 唯一正統の権威だけが、次から次へと現れては人を呪縛にかけるワナを敏感に察知して、自由を救いうる守り神である。
 自由思想の自縛 p26



 そう。多くの者が訳知り顔で笑い飛ばす「正統」であり「権威」と呼ばれるものこそが、自由を守る。

 問題は、その「正統」と「権威」が何であるか。

 これを理解しない限り、自由は蜘蛛の巣となる。

沈黙の多寡

 アンケートとはそういうものか? と誤解させるから教育上良くない。

ブログ流行語大賞 豊富な「新聞発」 IZAhttp://www.iza.ne.jp/

 そして、中韓と仲良くすべきかを問う毎日新聞のアンケート記事での「今回のこたえは数字の上では『しなくていい』が圧倒的だったけど、応募しなかった多数のサイレントマジョリティを考慮にいれて決定させてもらいます。中国・韓国とは仲良くしたほうがいい。あたりまえの話だよね」とのくだりにいたっては“豪快系”と呼ぶしかない。「サイレントマジョリティ(積極的発言をしない多数派)」という言葉を一躍流行語にし、無数のネタを生んだ、実にパワフルな一節だ。



 選択バイアスを働かせてわざと偏った結果を出す手法は古今東西行われているという現実はあるにせよ、ともかく結果を考慮してそれなりの考察をしなくちゃいけないのがアンケートなんだがなぁ。このむちゃくちゃな結論はそうそうお目にかかれない。

 新聞社なら、臨床試験で目的にそぐわない結果が出ても「だって効くって思うんだから売ったのよ」と製薬会社が言ったら大騒ぎでたたくだろうに。

 サイレントマジョリティでいるってことはそれだけで新聞社にとっては好都合で好きに扱われてしまう。そして黙っている側が「サイレントマイノリティ」だとしたら「言論弾圧の被害者」として扱われる。

 共通項でくくられるその「サイレント」を多いとか少ないとか良いとか悪いとか自分の価値観によって定義するのが新聞社なんだから、これはもうどうしようもない。

 実際のアンケートを見たわけではないが、「中韓と仲良くしたほうがいいか悪いか?」という設問がまたおかしい。「仲良く」という主観的な軸でアンケートをとるという設問ですでに情報バイアスをかけている。

 実のところそれで「仲良く(は)すべきだ」という回答が多くなることを予想したんだろうけど、この(は)に引っかからず「(現在の国益にかんがみていまのところ)仲良くすべきでない(むしろなあなあにならず毅然とした態度で臨むべきだ。仲良くするのはそれからだ)」という答えがおそらく多かったものだから、結果として新聞社が日本と中韓の仲を悪くすることを煽ったみたいになったからあわてて「サイレントマジョリティ」みたいなものを持ち出したんだろう。

 甘い言葉で世論を操ろうとしたら失敗したと言うところかもしれない。とすれば自業自得以外のなにものでもない。

 つ[☆自業自得大賞☆]  おめでとう!

タウンミーティング びっくりするほどかかったのね

 いかん。気分も新たにライトでメロウなブログを目指していたのだが、重い。重すぎる。ということで、時事ネタでお茶を濁そうと思ったなりね。

2006/12/06-12:12 タウンミーティング、経費に問題=報告書に明記へ?調査委

 政府のタウンミーティング(TM)に関する調査委員会(委員長・林芳正内閣府副大臣)は6日午前、内閣府で第8回会合を開き、開催経費が過剰との認識で基本的に一致した。近くまとめる調査報告書に、経費に問題があったとする内容が盛り込まれる見通しだ。
時事ドットコム 記事



 ようは業者の言いなりになって「良きにはからっちゃって」と軽く発注した零細企業の社長さんがいて、あとで母ちゃんに「これ何よ! 無駄金使いすぎじゃないのさ!」と怒られてる図に過ぎないんじゃないか?

 むかしむかしのことだが、懇意にしている建設業者の社長(いい人なんだな、これが)にちょっとした工事をお願いして「大体いくらくらいかかる? うちとしてはこれくらいの心積もりなんだけど」と尋ねたら「ああ、そんなにびっくるするほどかからねぇよ」と言われたので安心して見積もりもとらずに発注したら請求が来てびっくりしたことがある。

 そのくらいの経験つんでから仕事しろ。役人。

HN変更し気分も新たに。

 straymindからGraveyardRunner(G.R.)と名前を変えました。出世魚とか元服みたいなもんです(ポジティブすぎ?)。よって今後はGraveyardRunnerもしくはG.R.で出没します。

 それはともかく、チョンス兄から紹介されたチェスタトンの「正統とはなにか」を2ヶ月も前に注文したんですが、待たされたあげく「すみません、入手できんのでキャンセルしちくりませ」というメールがアマゾンからやってきやがったので、古書をあたってネットで注文。もうすぐ届くなり。

 しかしまぁ。待ってる間もバークとかハミルトン(キャプテンフューチャーじゃないほう)とかを探してみたんですが、ほとんど無いっすね。絶版もしくは未訳もしくは悪意ある翻訳もの(>聞いてるか?岩波)。

 日本では中川センセが乗りまくりの悪口でサヨクを罵倒しつつバークほか保守思想の紹介をされていますが、あの語り口を読み続けるとさすがに疲れるのです。ここはやはり切り込み隊長別宅のバーク主義解説あたりをふんふんと読んでみることからはじめたほうがいいような、そんな保守貧困の今日この頃なりね。

追記

 そうこうしているうちに注文品が届きました。

 G.K.チェスタトン著作集1 「正統とは何か」
 福田恒存 安西徹雄 訳 春秋社 刊 昭和五十四年二版

 定価1500円なりが古書で3000円。高くなってんの。それだけ希少ってことかもしれないね。ヤフオクに出したらもっといけるか?(冗談)

子猫殺し 坂東氏の狂気

 おそらくは政治的判断もあるのだろうとは思いますが、坂東氏のエッセイを巡って当地の政府が告発を検討している模様。

 それはそれとして、毎日新聞に坂東氏から寄稿された文章を見ました。(最後尾に引用掲載)

 ふたつほどポイントがあると思えます。一つは毎日新聞の視点、もう一つは坂東氏本人の考え。以下、これらを考えてみます。

 まず、記者の考えを引用:

動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。【鳴海崇】


 この鳴海なる記者の考え方がそもそも勘違いだと思われます。事の発端となった坂東氏のエッセイが彼女自身の心の病理を著しているという指摘と彼女の考え方を社会の病理・animal careに対する私たちの心のゆがみとして同一視しているのです。

 これは全くの間違い。私が思うに、坂東氏は坂東氏として、考え方が病んでいる。この件に関しては後述しますが、坂東氏がバランスを崩した考えを持ち、その結果として子猫を殺すのであるから、それは間違いであると指摘し、行為をやめさせ、なおかつ坂東氏の心の闇に立ち入っていかなければならないのです。このため、坂東氏は動物虐待行為者として法的に裁かれねばならないと思います。その、個人的病的行為と私たちの社会が抱える構造的問題を一緒くたにすれば、「社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない」という、少数弱者の権利尊重みたいなくだらない論理になるのです。

 鳴海なる記者は、坂東氏の心の問題には全く関心が無く(もしくはそれを直視する能力が無く)、社会の問題としてテンプレート的にことのうわべをなでただけの意見を述べているにすぎないと思えます。だから、坂東氏が今回寄稿した文の最後に出てくる「言論弾圧」という言葉に寄り添って考えてしまうのです。

 少数の意見を尊重しろと言いつつ、大多数側が大多数であるが故に間違ったものを間違っていると指摘できないのなら、それこそが弱者神聖視の言論弾圧でしょう。

 さて、それらはまぁどうでも良いことかもしれないですからこの辺にして、坂東氏の言葉に迫ってみたいと思います。

 もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。
 坂東氏



 バカですか?

 動物と人間の尊厳を同一視してしまっている。極端に言えば「人権」と動物の持つ生存本能を同一視している。

ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。
坂東氏



 これらは「国家が国民の基本的生存権を侵害して不当に権利を奪った行為」ですから、指弾されてしかるべきです。しかし、この理論を動物にまで広げるのは極論なのです。坂東氏は苦し紛れにこんな表現をしたのではないかと思えますが、何でも「人権」と言えばいいというような忌まわしい考え方が見え隠れしています。しかも、ここで言う人権はいわゆる「クソ人権」で、呉智英氏言うところの「人権真理教的人権」の意味合いを持つものと考えて良いような制限のないものが相当します。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。
坂東氏



 ああぁ。この一文をもって、坂東氏の思想・思考の底の浅さが伺われてしまいます。

 逆なのです。私たちはそういった愚昧な断種法、優生思想の元となるダーウィニズム的人類進化主義・進歩主義的歴史観の愚かしさから何を学んだのでしょう。それを一つも分からず、このように平然と「人類の忌まわしき愚行」と「共生のために痛みを感じつつ伴侶動物の生に干渉する」ことの違いを無視して語ることが出来る坂東氏の心性に大きな疑問を感じます。

 反対に、このように同一視する思考にこそ危機感を覚えます。

 坂東氏のエッセイを批判した人の中には、たしかにそういう意味で(ただ感情に動かされて)一方的な価値観のもと坂東氏を批判した未熟な人もいるかもしれません。しかし、動物に対する避妊を手放しで受け入れている人の方が少ないでしょう。ブログでの議論を見ている限り、多くの人が悩み、その上で手術を決断している様子がうかがえる。

 そういう点からも、つまり断種法などを引き合いに出した時点ですでに坂東氏のエッセイは「社会に一石を投じる」価値が全くなくなっています。

 坂東氏の個人的病理とは何であろうか。その問いが、私の問いでした。最初は「病理としての動物愛護をえぐり出す目的」があるように見えたのですが、それは間違いであると考え直しました。

 では、何であるのか?

 今は「供犠」であろうと考えています。つまり、生け贄。猫は、そして子猫は、坂東氏信ずるところの「けもの本来の性」と「ペットとして不本意に飼われる呪われた生」の狭間に位置するものなのです。

 親猫は「本来の性」をまっとうするべき存在。そして、その結果として生まれる子猫は「ゆがんだ世界に産み落とされた呪われた運命の子」。それであるが故に、子猫は産み落とされてすぐ、崖下に投げ落とされなくてはならないのです。

 それは「不妊手術」であってはいけないのです。

 この部分が核心であろうと思います:

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。
坂東氏


 彼女は「陰嚢と子宮」に、つまりセックスに、生殖に、異常な執着をもっているのです。それは、「彼女自身の執着」です。

 おわかりでしょうか。坂東氏は、彼女自身が持つ「セックス・生殖」への執着の身代わりとして親猫を見、その「性と生」をまっとうさせたいと願い、その結果生まれてくる子猫をその執着の捨て場としての崖下へ投げ落とさざるを得ないのです。

 異常である、と思えます。狂っている。

 しかし、そういう狂気はまた、私たち1人1人の中にも、潜むものでしょう。形を変え、姿を移ろわせつつ、私たちにまとわりつく闇でしょう。

 私は、その闇を否定しません。

 しかし、だから、子猫を殺して良いのか?

 自分の心に潜む闇を、猫を飼い、子を殺し続けることで埋めて良いのか?

 結局、坂東氏は自らの狂気をはらんだエゴのために子猫を殺し続けているのです。それが正しいこととは言えない。そしてまた、それが間違っていると言えないことも正しいことではない。

 だから、私は坂東氏の行為は間違いだと言い続けたいのです。

 追記。

 阿呆な記者の解説など気にせず坂東氏の今回の文章を読んでみてください。

 坂東氏は述べています:

 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。



 自ら恣意的に子猫を殺しておき、それをエッセイの形で公表したプロの物書きであるなら、「事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる」と書いていることを、恥じるべきでしょう。プロであるなら、言葉を尽くして語り、反論には言論で応えていくのが筋でしょう。それを放棄したのは、おそらく作家生命の終焉を告げるものとなります。

 もっとも、「言いたいことを言って批判されるのは言論弾圧だ!」と叫ぶ左巻き思考の持ち主であると宣言するなら別ですが。

 作家である彼女の口から「言論弾圧」なる重い言葉が出たことは、おそらく今後議論を呼ぶことでしょう。そして、それを(わかったようなことを中途半端に解説して)ほぼ無批判に載せた毎日新聞の報道姿勢も批判されるでしょう。

 追記2。

 まさか事実関係を調べたら「みんなウソでした。てへ。」なんてことにならないだろうなぁ。

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子猫殺し:告白の坂東眞砂子さんを告発の動き??タヒチ管轄政府「虐待にあたる」

 直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。20日から26日は、動物愛護週間。坂東さんが、真意を語りたいと毎日新聞に寄稿した。

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 ■解説

 ◇動物の生と死、多角的議論を

 坂東さんは「子猫殺し」を発表することで、愛猫に抱く葛藤(かっとう)を伝えるとともに、過剰なペット依存社会に一石を投じ、動物の生と死について再考を促そうとした。しかし現状では、多角的で本質に迫る議論には発展していない。

 「雌猫3匹が産む猫を、がけから放り投げている」。この強い表現は、猫への愛情と罪悪感が希薄な印象で、読む側の不快感につながった。言葉を扱うプロだからこそ、意図を正確に届ける工夫がもっとほしかった。

 また、猫への避妊手術は、坂東さんの挙げる野良猫対策とは異なる側面もある。野良猫の7割以上がウイルスを持っているといわれる猫エイズの予防だ。治療法は確立されていないが、体液の接触感染が主な原因で、不妊・去勢手術を施してけんかや交尾の機会を減らせば防ぎやすくなる。

 現代社会の猫や犬は、単なるペットではなく、人生の伴りょとして扱われる。坂東さんに賛同する人は少ないだろう。ただ、私たちが「動物にとっての本当の幸せ」を知るすべはない。動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。【鳴海崇】

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 ◆坂東眞砂子さん寄稿

 ◇子猫を殺す時、自分も殺している

 私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。

 さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。

 しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。

 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。

 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。

 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。

==============

 ■ことば

 ◇子猫殺し

 坂東さんが日経新聞8月18日夕刊でエッセー「子猫殺し」を掲載。飼っている雌猫に避妊手術をせず、子猫が生まれるとがけ下に投げていることを明らかにした。日経にはメールと電話で延べ1497件(今月19日現在)の意見が寄せられた。「残酷で不快」「動物愛護の精神に反する」「生命を軽視している」「避妊手術と、子猫を殺すことを同列に論じるのはおかしい」など、大多数が批判。少数だが「これからも生と死について書き続けて」との賛意もあった。

毎日新聞 2006年9月22日 東京夕刊

不可逆的避妊と猫殺し

 コメントで少し書いたのですが、不十分だと思い、エントリします。

 坂東氏の行為から一般的な話題として「不可逆的避妊と猫殺しとどう違うのか」という議論があるようなのですが、「子を作らない・増やさない」という点についていえば、私としては本質的に違いはない、と考えます。

 なぜなら、猫が本来自然のものであるとするなら、人間の干渉を全く行わなければよいのです。産もうがどうしようが、私たちの関わることではない。

 しかし、実際にペットとして猫を飼う以上、「必ず干渉しなくてはならない」のです。現実には子猫を産みますし、それが増えることで私たちの暮らしになにがしかの実害が出る可能性があるからです。

 その実害を発生させないように、具体的にいえば身近で猫が増えすぎないように、何らかの「制限」をかけざるを得ないのが現実でしょう。

 その現実をふまえたとき、繁殖制限のために「避妊」と「子猫殺し」とで本質的にどちらが良いと言えるかどうか。

 この点で、私は「現在の日本では避妊手術の方が良いという大まかな合意が出来ている」と繰り返し述べてきました。理由としてはその行為に関わらざるを得ない人たちの罪悪感に依るだろうと言うことも書きました。

 さて、ここで発想を変えて、子猫殺しよりも避妊よりも良い方法があるでしょうか。たとえば経口避妊薬とか、インプラント剤(皮下に発情抑制剤入りのシリコンを埋め込んで徐放させる薬だそうです)を使うとか、さらにはワクチンのように注射で発情を止める(卵巣機能を破壊する方法?)とか。

 おそらく、近い将来、もっと「猫に負担をかけない方法」が開発されれば、今の避妊(手術)がそれにその方法が今の避妊手術に取って代わるでしょう。しかし、それで全ての問題が片付くでしょうか。

 「猫が猫本来の生活をする」ことからすれば、全てが人間の干渉であり、猫本来の生を阻害する行為としては変わりがないのではないでしょうか。

 ここで言いたいのは、「子猫殺し」も「避妊手術」も、将来開発されるであろうあらゆる「繁殖制限処置」もすべて、ある意味で「猫の自然(交尾・繁殖・子孫維持)」に干渉すると言う意味で、「人間側の勝手・都合」なのです。

 こう考えれば、「不可逆的避妊と猫殺しとどう違うのか」と言う議論がそもそも「人間側の感傷」もしくは「「罪悪感」から生まれ出た一方的な議論にすぎないことが分かります。

 (今まで各地で行われてきたであろう)子猫殺しが悪で、避妊が善である。いや、逆である。と言う話は実は(繁殖制限をしなくてはならない人々のその時代、実情、技術に関わる)「程度の問題」であり、それ故二元論的な話はそもそも意味をなさないのです。

 私はその「程度」がどこまで社会的に許容されるのか、どこで線引きをするのか、と言う点に興味があります。

 そこで今の話題として出てくるのが、「子猫を殺すことのなかにある残虐性」でしょう。しかし、これもまた「生命倫理」などで括れる話ではありません。

 その行為の裡に潜む「心」に目を向けなければ、本質は見えてこないと思っています。

 たとえば、生まれた子猫を川に流す行為。これが「残虐であるかどうか」はその地域、時代、その行為を行う「人たち」の歴史的背景を考えなければなりません。

 一方で、現在意図的に子猫を捨てている人もいるわけです。

 この人と、仕方なく川に流す人の差は何なのだろうかというところに、目を向けたほうが良いと考えていますし、そこにこそ、何らかの答えというべきものがあると考えています。

 たとえば、こういう問いはどうでしょう。

 「坂東氏が、避妊手術という手段によらず全く新しい(今のところ架空の)安全な別の方法で猫の繁殖制限が出来るといわれたら、子猫殺しをやめるのか?」

 「もしやめるとするなら、そのとき、避妊手術とその(架空の)方法とで、本質的な違いが何であると考えるのか?」

 この問いに、答えられるでしょうか。

TB:子猫殺しと「きっこのブログ」

コメントを削除する恣意性

 不要と思われるコメントやトラックバックを削除するにあたり、記事に関係のないスパムは当然対象となりえます。あとは誹謗中傷のたぐい、個人情報の不適切な露出といったところでしょうか。

 私の記憶ではつい一年前くらいはスパムが大流行でした。自分のブログ(ここじゃないところ)にもたくさん送りつけられました。それが今ではトラックバック機能の強化などによってほとんど見られなくなりました。これは無関係な記事を機械的にばらまくことを防ぐ意味で良いことだと思えます。

 いっぽう、コメントに関してはスパムを除き冒頭に書いた条件あたりをストリクト(厳格)に適用するか、ルーズ(緩やか)にするかブログ管理者の恣意性に任されている部分が大きく、さらにそのやり方がブログに対する外部からの評価を左右する面があります。

 たとえば「あそこは気に入らないコメントだととすぐ削除する」という場合は多分に「卑怯者」とか「信用ならない」という評価が下るわけです。逆にどんなコメントも残し、丁寧に対応していると見られるところは高評価になります。(ここで、「見られる」という言い方に注意)

 この評価方法はある程度時間をかけて同意されてきたものであろうと思います。

 さて、炎上。ネットイナゴ。こういう場合のコメントに対応する態度はどんな感じかというと、おおかたは無視かブログ閉鎖かコメント受付停止になります。

 もちろん丁寧に対応するという選択肢も可能性としてはあり得るでしょうが、現実にはほぼ不可能。よって、上記三つぐらいが実際取り得る手段でした。

 しかし、中間的な手法もありました。おそらく長くブログを続けていてネットワーク知識もあるヘビーユーザーにしか出来ないことでしょうが、炎上した場合、イナゴの発言は力業で削除するというスタンス。

http://lsty.seesaa.net/article/22749345.html

 もっとも、炎上の元となったエントリは手を加えず、今後その手のものに対して取る手段としてですが。

 これは炎上原因がブログ側にもあるとしても謝罪を要求されるようなことではないと言う点で炎上原因の是非はともかく、延焼によりブログ全体が荒らされることへの対応として現状でベターな方法かとも思えます。

 この手法を好意的に取れば、「ネットイナゴ」のレッテルがより実態に即したものとして認識されてきたため、「イナゴ発言」かそうでないかという見分けの合意が出来つつあるということから、ネットイナゴ対策の最適化につながる出来事でしょう。

 しかし、逆に一抹の不安を感じるところもあります。

 今後、どこまでがセーフでどこまでがアウトかという線引きについて、他のブログに対して好ましくない影響を与えるだろうという点です。

 冒頭で記したように「コメント削除」はなるべく恣意性のない形が好ましいという合意になっていたであろう考え方がより恣意性の方向へ振れる、という可能性です。言い換えれば、いったん「イナゴ」のレッテルが貼られれば即削除という判断が生まれ、その閾値が低下するのではないかということです。

 もしそうなったとしてもそれは元をただせばネットイナゴ行為がもたらしたものですから、自業自得と言えばそれまでですが、それで「ネットイナゴ」に実害が出るわけではない。恣意的削除の害を被るのはブログ運営側です。

 また、本題とは直接関わりませんが、「実名匿名論争」にもさらに影響を与えることでしょう。

 「匿名」と「ネットイナゴ」と「ネット右翼」は誘導の仕方によって容易に融合したレッテルとなりえます。それが気がかり。

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