2017-06

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考察の実証。

 これは前回の投稿の続きです。

 行為の考察で、推論の結果から「ほとんどが転載記事で構成されているブログ」を想定しました。

 この時点で、実際にそんなブログがあるかどうかはわかりませんでしたし、もしそれが今も存在していたらたいしたもんだと思い、検索をかけてみました。

 ここでちょっと言い訳。私はこの転載問題に古くから関わってたわけではありません。たかだか10日前くらいから、OYAJIさまの出来事により関心を持っただけです。で、実験から考察まで、骨子を考えるに30分、実行し、エントリを書き上げるに数十分という、ごくテキトウな行為です。で、気になって検索をかけたわけです。

 ヒットした中で一番意味があると思えたのが下記のものでした。

ちなみに・・・転載記事ばかりで構成されているブログが削除された理由は、もちろん著作権という要素はあったかもしれませんが、大半の理由は・・・「苦情」だと思います。ですから、この転載機能と著作権に関する議論に対して上のブログが削除されたのは転載可でも著作権が保護されているからだという理由に直結しません。

転載機能を語るうえでの基本原則。



 「転載機能」で検索し、たどり着いた著作権法に関してのエントリ内で見つけた記述。(<すでに勝手にリンクさせていただいておりますが、この一文は見ていなかったのです)

 結論としては、やはりあったのか、そしてやはり長く存在しえるものではなかったのか。ということでした。

 さて、以上のように、ある程度推論が正しかったという結果が得られたところで、さらに考察を積み上げることが可能です。ただし、ここでは「著作権法」に絡んだ議論には入りません。ややこしすぎるからです。

 このエントリを書いている時点でも「転載機能」が有効となっており、現実に転載が行われており、OYAJIさまのように一方ではその機能の不備を指摘しつつ自分で行った転載推奨行為が火のような批判を浴び、かつ、プリクラノートのように自分の気に入った記事を集め(<気に入るという動機がなければ転載記事を集めるという動機にはなりえないのは前回考察したとおり)、それが著作権法以外の何らかの事情により削除された(<システム側が削除したのか、ユーザーに削除を勧告したのか、ユーザーが自分で非を悟り削除したのかはわかりませんが)、という経緯を持つ「転載機能」であると判ったわけです。

 この経緯を考えるにつれ、「企業側」=「システム側」の組織倫理という、ある意味独善的な姿勢が際立ってきます。

 「転載機能」を設置する場合、ユーザーのシステム利用法として当然推測できる「クリップブログ」。それが実際に行われたとして、「苦情」によりそれが「削除」された、という現実から見えるものは、以前のエントリ(壮大なマッチポンプの果て 自生的秩序、か?)で結語近くに用いた考え、つまり

システム側はユーザーの保護をほとんどかんがえていねぇ

という推測がある程度裏付けられると思います。

 なぜなら、デフォルトで転載機能があるなら、程度の差はあれ「自分のブログを気に入ったほかのブログ記事で「飾る」という行為」は必然として行われるのですし、事前に十分予測できるものであるにもかかわらず、その予防措置を十分していない現実があるからです。そしてその行為のどこまでがセーフでどこまでがアウトかは、ひとえにシステム側の恣意に任されます。

 これを比喩的に言うと、昔の漫画にあったのですが、「マイクロソフトのプログラムを買って、その使用許諾契約書の中にある「使った場合はビル・ゲイツのしもべとなる」という記述を読まなかったがゆえにしもべとなってしまったおやじ」(出典は忘れた。確かMacの雑誌に連載されてたと思う)と同様のブラックジョークでしょう。

 もちろん、ガイドラインに沿いつつ楽しくやってくれ、というのがシステム側の論理です。それでそれは反証しようのない、普通の姿勢です。

 しかし、その中に実は「有害物質」が紛れ込んでおり、実際に被害が多発している現状を放置しているのが、今のそのシステムにおける実態です。

 これを医薬品や健康食品に置き換えて考えてみればどうでしょう。

 はっきり言います。

 そういう問題は発売前に解決しとけ。

 問題はそのための臨床試験をどうするか。

 実はいま、システム側はその臨床試験の真っ最中なのです。

 そう考えれば、納得がいくのですよ。

 追記。すみません。トラックバックの操作に失敗しました。タイトルを改めて再度エントリしました。

行為の考察

 直前のエントリ 転載文。 は straymind memoから転載したものです。転載元は私のメモ用に作ってある別宅で、文章も私が書いたもの。

 転載機能というものを体感してみようと思いつき実践してみました。

 結果としてはやらなければよかったと思えます。ほんとに。このエントリを読んでいただいたかた、つまんない思いさせてごめんなさい。

 で、むろん自分の書いた文章を自分でコピペして自分のブログに貼り付けるわけですから、面白くないのは当然。実際の転載機能と比較するには無理のある実験(w)ですが、それが逆にある条件を抽出してモデル化し考察する意味では意味のない考えではなかったと思えます。(<無理か? 無理筋か?)

 いくつか考えるところがあったんですが、ひとつには転載機能を用いて人様のブログ記事を自分のところに置くという行為そのものの根源は何かということ。

 なんでもないものを転載しても面白くもなんともないですから、面白いと思える動機が必ず必要になります。それは何かが気になったわけです。

 まず思いついたのが、自分の部屋にお気に入りのピンナップを貼り付けるのと似た感じ。気に入ったものを集めるのですから、面白い。でもそれなら人様の目に留まるところでなくこっそりやれよということになるが、それをブログでやることに意味があるのではないかと仮説を立ててみました。

 通常の理解ではブログは自分の意見を発信し、それが記録され、読者による(有言無言の)レスポンスを期待するものでしょう。

 となれば、その理解のもと、転載機能は他人のブログ記事を用いて自分のブログで何らかの意思表示を示しかつレスポンスを期待しようとしているのではないかと考えられます。

 まずその前に考えなくてはならないこととして、転載の心理的障壁があります。転載行為を「転載機能」がついていないブログでやれば、事例によっては(よらずとも普通は)盗用などの面倒なことが起こりますし、それを行うにもいくつかのステップがいるわけで、それが心理的に盗用を行いにくくさせる要因になりえます。

 しかし、システムのデフォルトで転載機能がついていれば転載先になるブログ管理人も心理的障壁はなく、その行為を行うことは全く問題ないでしょう。

 他人のブログ記事が「気に入った」として、通常なら考えられないであろう「盗用」行為かも知れない行為が、盗用でなく「お気に入りをクリップする」という感覚に近くなってくると言えそうです。

 その感覚になれば、極端なことを想定して「自分のブログをお気に入りのクリップ記事で埋め尽くす」としてそのクリップブログ(仮称)であっても行為の主体はクリップ主であるから、自己の主張になりえる。「こんな記事をクリップしました。見てください」という形態を考えることも可能です。

 似たような行為をほかのシステムであげるとすれば、ニュース記事を集めたサイトですかね。しかし、それは政治批評など何らかの目的があるのが常ですし、必ずといっていいほど記事に対する一言コメント以上のものがついていますから、形態ほど内容は似ていない。

 では、転載機能を用いた記事クリップを利用したブログは何に似ているかというと、「プリクラノート」ではないかと。お気に入りのプリクラを手帳に集めたものと酷似した形態ではないかと考えます。

 違うだろうか。

 で、それはすでにブログか?


 もちろんウェブログという見方をすれば記録といえばそうですが、「ブログ」をうたうサービスとしてはどうかと。

 ほかにもブログ同一性保持特権とかクローン記事閲覧への不快感とかも考えましたが、とりあえずここまで。

転載文。


 Wii。ストラップ交換ですと? あちこち走り回って当日手に入れた嫁の苦労をどうしてくれる。謝罪と賠償(ry

 友人の子供らとその親ども。かえせ。Wiiを返せ。賃貸契約をよく読(ry

 で、この二つをあわせると、友人の子供がストラップを持ってコントローラーを振り回して、(そいつの持ってる)大事な大画面液晶が傷ものになり、私はどうなる?

 そうだ。早くWiiを値下げしてください>任天。

壮大なマッチポンプの果て 自生的秩序、か?

 これは「善意の転載問題」の続きです。

 マッチポンプ 篇


 あるブログシステムのユーザーが、そのブログ社会ではデフォルトとされている転載機能を使ってチェーンメールに類似する行為を行いました。その結果、そのブログシステムが抱えるユーザー層に記事は拡散しました。それを見たそのブログシステムではない環境にいるブロガーが、それは「ネット社会では良くないとされている行為である」と指摘。そこから議論が始まったのです。

 議論は「チェーンメールである・ない」と「システム利用規約上問題ある・ない」と「テキストの内容にかんがみてその行為は問題ある・ない」と、「議論の態度や内容の誠実性に問題がある・ない」など多岐にわたるものでした。

 私の参加動機はひとつで、「件の行為はシステムの規約や法律を楯にした放縦な行為であるから、それを認めればネットの社会において自由がなくなる」という危惧からでした。(<大げさって言えばそのとおりw)

 いろいろ考えさせられる出来事でありましたが、私個人としては中心となった「善意の転載問題」は、ほぼ、チェーンメール類似行為であるから、よくないことだという結論には変わりありません。

 しかし、違った視点から見れば、この問題は「発信者の壮大なマッチポンプ」以上のものではなかったとも理解しています。

 つまり、転載機能(「ポチッとナ」という感じで転載ができてしまう機能)を、あるユーザーが自分では十分法律やガイドラインや文責に配慮(したつもりというレベルかもしれないが、とにかく配慮)し、期限限定などの工夫を凝らし「利用した」。当初は騒ぎにもならずひとつの狭いブログシステム内に存在するコミュニティーに限定された善き行いの感があった(<異論はあるでしょうが)。言ってみれば転載元転載先両者とも当事者からすれば「小さな善意の火」であった。

 それが、外部からそれを見たときに「それは良くない行為だ!」と指摘するものが現れて、火をつけた本人は対応に大わらわとなり、その行為が不適切であるとしてまた反応を呼び、大火事となった。そして発信者の努力(?)もあり、周りに類焼するものが無くなるにつれて鎮火していったということでしょう。

 これは発信者が勝利したわけでもないし、批判者が勝ったわけでもないですね。双方(動機はどうあれ)全力を尽くして問題を扱ったがゆえの、火災です。

 焼け跡に残った「転載した人たち」にとっては多いなる災難であった可能性もあります。これはもうお気の毒としかいいようがない。

 そういう認識にいたるにつれて、下記に記すような考えが固まってきました。

 自生的秩序、か? 篇

 経緯を振り返ると、いかにその「システム」が可燃性を帯びた空気に満たされているかが判ります。ネット上のブログという大きなエリアの中に存在するひとつのシステムは、その中で閉じたサービスでありつつ、同時にブログというメディアを介してつながりあうものであり、その中にあるシステムがブログ全体を巻き込む発火元となりえるようです。

 もうひとつの方向に目を転じてみると、システムはユーザーのためのものか? という疑問が沸きます。前述した「お気の毒なユーザー」は、そのシステムによって「守られたのか?」という疑問。

 ちがいます。ぜんぜん守られていませんし、システムはユーザーの保護を考えていません。ユーザーはシステムの規約により縛られます。これはシステムをユーザーから守るものとしては機能しますが、その反対はありません。一方的な縛りがあるだけです。全く対等ではないのですね。昨今の企業風土を考えると当たり前ですけど。

 一方、ユーザーはシステムを信頼しその規約にのっとっている限り安全であると考えがちです。しかし、初心者ほどそのシステムが持つ「可燃性」には気づきませんし、きらびやかな「メリット」のみを享受できると考えがちです。たとえデメリットに気づいたとしても自分で気をつける以外にないし、それは通常明示されません。身を守るのは自分です。それに気がつくのも自分です。

 今回の議論は、まさにその一方向性を露骨に表したのだろうと考えられます。
 
 さて、ここでシステムの内部対外部という構図を改めて考えて見ましょう。

 内部に関しては上記で考察したとおり、システム側に有利であり、ユーザーの保護は不十分であり、可燃性を帯びた空気(転載機能)を持つ。

 対して外部は古くからの錯誤やトラブルを経て積み上がってきたネット倫理(道徳)を知り、それがなぜできてきたかを知るユーザーが多い、開かれた世界。いわば自生的秩序を持つ世界。

 もう少し単純化すると、内向きの組織倫理と外向きの自生的秩序という、相反する社会ではないかと考えられます。

 この、相反する社会の対立ではなかったかと。

 おまけ 篇

 もう少し考えると、なぜ発信者の弁は強硬でありえたか。

 発信者は(今までのネット議論から推測できる限りにおいて)「組織の代弁者」たる役割を果たしていた。つまり、自覚しているといないとにかかわらず、所属する組織の利益に沿った考えを主張していた。ですから、少しもひるまない。自分が主張することは組織の利益にかなうから、不利益になることは、ない

 そういう構図を考えることが可能ではないかと思うのですよ。

法律じゃ問題ないもんという疑問

 いわゆる善意の転載推奨問題について、考えたこと。

 いまのところ、発信者(「着ぐるみ男」さん(仮称)」は、その行為の張本人であると認めていますね。しかし、ルールにのっとって行っているし、倫理的にも問題ないとしています。これは「自分の行った善意の転載推奨行為」は、ネット社会において何の問題もないという主張です。(<これ以外に主張の解釈があったら教えてもらいたいもんだ)

 しかし、「善意の転載推奨」はいわゆるチェーンメールの類であるから、問題である、と言う批判が出ています。

 私は、善意の転載推奨行為は限りなくチェーンメールに近似する行為であるゆえ、ネットにおいて「やっていはいけないここと」とされている行為に該当すると考えるもので、これは考え方としてきわめて妥当ではないかと思います。

 さてさて、ここで問題になるのが、「法的に問題ない」と言う話。


しかし、彼が「これはチェーン日記という行為に等しいもので、ネチズンの多くにチェーン日記を迷惑行為=悪徳と認識されているもの」と理解した時、「法的には問題ない。だから俺は悪くない」というのは、なんだかスッとしない話です。

善意の転載と法的問題



 すっとしないのも当然で、元来「法(法律)」とは無関係な話なんですよね。

 「法的には問題ない。だから俺は悪くない」ではなく、「法とは関係ない」がただしい。だから、「俺は悪くない」という結論は導き出されない。そういうことです。

 要は、法律は人間活動のすべてを縛っているわけじゃないのよ。

 ということでしょう。

 なぜなら、着ぐるみ男さんが行った行為は、あるシステムにのっとって行われた行為で、そのシステムが合法である限り、基本的に違法性はありえません。違法性があるとすれば、それが「詐欺」であるとか「誹謗中傷」であるとか「プライバシー侵害」であるとか「人権無視」であるとかなら、その時点で違法性を問われるでしょうが、そうではないからです。

 しかし、批判はあるわけで、それは「チェーンメール類似行為」がネットの中でいくつかの危険性を持つ(たとえばトラフィック増大によるシステムダウン、誤情報の流布によるパニック、など)わけですし、そうでなくとも、同じ情報がネットの中で複製を続けることはネットの不利益になる、という点で、ネットの住人の間では基本的な合意がすでに出来上がっているという歴史的事実があるからです。

 この、ネットの常識に照らして反則行為であるという点が、ただひとつ、着ぐるみ男さんに科される批判のゆえんです。

 さて、ではシステムに問題はないのか? という疑問も出てきますが、前述のように「法的に問題はない」が結論。しかし、そのシステムの利用方法によっては、法的問題を引き起こす可能性はある。しかししかし、それをいい始めればブログというシステムそのものもそういう危険性がある。これを問題視したらシステムを停止せざるを得ないです。

 ですから、システムにも問題があるわけではなく、ひとえに、その「使い方」が問題となってくる。

 そして、その使い方が、システムが存在する環境そのものに悪影響を及ぼすとしたら(<つまり意図が良い悪いにかかわらず、チェーン日記の多発ね)、それを規制する「ルール」がシステム管理者によって作られるかもしれません。

 そのルールにのっとって行動すれば問題ないでしょうが、それから外れれば何らかのペナルティを科されます。でも、だからといって「そんなルールは納得できない。法律では悪いことしてるわけではない」と叫んでも、まず、無理でしょう。そのシステムを使用停止にされるか、追放もありえる。そしてその判断はもちろん法律違反ではない。

 要は、チェーン日記に類似する行為が行われた。そしてそれは「ルール」にのっとって行われているから問題ないし、善意で行われているから(<だれがそれを証明できるんだ?)倫理的にも問題はない、というのは、システム側がルールを作れば、吹き飛ぶというだけの問題。法律云々は関係ないんです。

 真の問題はそういう誤った行動を誘発しやすいシステムを維持し続け問題解決をしないシステム管理者側にある、ということではないでしょうかね。

 もちろん、着ぐるみ男さんはがんばっています。自分の行為は正しいと主張し続けています。

 それにより、ルール策定の圧力が高まり、システム側も対応せざるを得なくなってくる、というのが、現実でしょう。

 もちろん、放置した場合、ネット社会に対する責任を問われるのは、着ぐるみ男さんではなく、システム管理者である可能性があります。しかし管理者側もそううかつではない。着ぐるみ男さんに何らかの圧力をかける、というのが手始めでしょう。

 さて、どうなることやら。

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